悲しみ眼鏡

 私が拾った不思議な眼鏡は人の悲しみが見える。溝口君の悲しみも見える。

「それでね、ちゃんと計量して砂糖を入れたんだけどそしたらめちゃくちゃ泡立っちゃって大変なことになったんだよね。砂糖じゃなくて、なんか入れたらいけない粉末入れちゃったみたいで」

「すごいことするなぁ」

 私は今日の調理実習の時の失敗を溝口君に話す。溝口君の班は実習をそつなくこなしていて無事に終わっていたけれど、そそっかしい私はいつもどうでもいいところで大騒動を起こしてしまう。

「賑やかな時間でよかったね」

 そう言って溝口君は静かに微笑んでくれる。私は眼鏡越しに溝口君を見るけど、溝口君の悲しみはちっとも消えていない。

 私の拾った眼鏡を見つけた時、いつも自分のことでいっぱいいっぱいだった私はそのレンズ越しに色々なものを見てしまう。

 街中はずっと深く青い悲しみに満ちていて、道行く人たちもそんな感情を抱えている。

 誰もがその悲しみを誰かに押し付けたくて、手渡したくて、その重さに麻痺しながら生きている。そして私もまた、誰かにとっての悲しみを生み出していて、そんな繰り返しの輪の中に私がいることを見ることもまた、辛い。

 私はそそっかしくて、足りなくて、何をしていても失敗ばかりを繰り返す。レシピ通りに何かを作ろうとすればレシピを読んでいるのに、間違える。今日の調理実習も本当はお母さんに教わって練習をしたのに、間違える。

 お母さんは私に手書きのメモを作って計量の仕方から教えてくれたのに、私はそれすらもちゃんとやり切ることが出来ない。メモの内容をやろうとしているうちに、何をやればいいのかわからなくなる。焦って計量を間違える。焦って今やっていることと次に何をやるかを間違える。間違え続ける。

 お母さんは私が出来ないことを怒らないけれど、それでもお母さんがそんな私を見て悲しい気持ちになっていることがわかる。私の足りなさが、お母さんの悲しみを形作る。

 そんな出来ないことはずっと前からで、私はそんな出来なさがやりきれない。

 不思議なメガネを拾っていない頃に私は友達の溝口君に相談する。誰でも出来ることが出来るようになれなくて、何をしたら出来るようになるのかもわからない。

「大丈夫だよ、大丈夫」

 溝口君は私が泣きながら出来ないことを話した時もそう答える。お母さんみたいに「いつか出来るようになる」とも言わないで、ただ大丈夫だと言い続ける。そんな言葉が私に慰めになっていつもあと少し、もう少しだけ生きてみようと思えた。

 でも、不思議な眼鏡を通して世界を見てから私は気づく。

 溝口君の中にも冷たく悲しい色がある。

 私は溝口君はいつも穏やかに微笑んでいる木漏れ日のような温もりで、悲しみとは無縁なのだと思っていたけれど、それはただ溝口君がそれを人に悟られないようにしているだけだった。溝口君はこうして普通の顔している中でも、悲しみの中にいる。

 私にはわからないことだらけで、溝口君の悲しみもわからない。溝口君に何かあったのか聞いても、溝口君はなんでもないような顔をする。

 私は毎日起こすどうしようもない失敗を面白おかしく溝口君に話す。家族や友達から面白い話題を聞いたらそれも溝口君に話す。溝口君に笑ってもらおうと私は思う。

 それでも悲しみは無くならない。溝口君の悲しみは一ミリも揺らいでくれない。

 溝口君は私の悲しみをたくさん溶かしてくれたのに、私は溝口君の悲しみに触れることも出来ない。

「泣いているの?」

 話している最中に不意に涙をこぼしてしまった私を見て溝口君が言う。

「ううん、なんでもない。大丈夫、大丈夫だから」

 そんな私の姿に溝口君の悲しみが深くなる。

 溝口君にどこまでも何も出来ないそんな自分が、憎らしい。〈了〉

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