うすもやのなか、にげる

 私と溝口君のいる国以外の全ての国は《世界の脅威》に包まれて粉微塵になって消えてしまった。今では私たちは数少ない生き残りの人類だ。

 《世界の脅威》は薄い霧のようなもので、包み込まれたものはあっという間に消えてしまう。一体ずつしか現れないけど、とても早い。現れた一体が拡張されて広がっていく。世界を蝕むというよりも書き換えていくような動きをする。

 ある日突然現れて、簡単に世界を包んで消していった。もしかすると、世界が形を保っていたことが何かの間違いだったのかもしれないと思うくらいに、その様子は滞りがなくて滑らかだった。

 観測機の捉えた何もかもが無くなった海はとても澄んだ色をしていて、人類の飛ばした機体の影だけがノイズのように映っていた。

 私たちの住む国以外の全ての国があっけなく消えた。もしかすると私たちも消えるべきだったのかもしれない。

 溝口君がどうして霧を跳ね除けられるようになったのか、それはわからない。溝口君の感覚に《世界の脅威》が現れたことが伝わり、溝口君は変貌する。

 溝口君は戦いのために体を変えていく。遠く離れたところに《世界の脅威》が現れた時は流線型のフォルムになって空中を流れ星のように駆けていく。《世界の脅威》が拡散し切って一帯を包み込もうとしている時は全身からエネルギー波が放出されて全てを弾き飛ばす。

 世界の機構として、溝口君は在るようだった。私たち、生き残りたい人類を守るためだけに全てが動き出す。私たちの国の中でも色々な考えの人がいて、そもそも《世界の脅威》にかき消されることが正しいのだと考えた人もたくさんいた。でも、そんな人たちも溝口君が全員殺してしまった。人類に害をなす人類もまた、溝口君の敵のようだった。

 私や私の両親、国の要人は何もしていない。国の人が色々話し合ったらしいけれど、何かを言っているようで何も言っていない。様子を見ているだけだった。徐々に溝口君を神様と見立てて信仰する人も出てくる。戦いの時の溝口君はそれこそ鬼神のようだった。

「相変わらず、何も覚えてないよ」

 溝口君はそう言って、硬質化した手のひらを見つめている。戦闘の時に変質した溝口君の体は、段々と戦闘が終わっても戻らなくなってきた。

 黒目だったはずの溝口君の瞳は今では紅みがかかっている。

 学ラン姿だった溝口君が、普通に着れる服はもうない。ただ国によって提供された特別性の布を纏っているだけだ。

 溝口君は「丁寧に扱わないと」なんて言い草で地下に閉じ込められている。小綺麗にまとまった、無機質な部屋は私は牢獄のようにすら見える。

「どうして溝口君が戦わないといけないわけ」

「わからないよ。ただ僕がそれを出来ただけだよ」

「みんな溝口君を使い潰す気なんだよ。だってもう、みんな外で飲んだくれている。みんな最低よ、溝口君が可哀想」

「だけど僕は君がこうしてお茶を差し入れしてくれるだけでも嬉しいし、楽しいよ」

「そう……溝口君が困っていないといいと思って、私は結構不安かも」

 街中はお酒の匂いで気持ち悪い。誰もが未来に諦めを持っていて、ただ一時の享楽に浸っている。溝口君が命を賭けているのに、誰も命を大切にしようとしない。

「そんなことないよ。あの、ええと……ごめん……君の名前が思い出せないんだ。なんて名前だっけ」

 溝口君が意識を保っている時間と、彼の記憶はすり減っていくばかりだ。こうして話すことの出来る時間以外、もう溝口君は溝口君じゃない。紅い瞳を煌めかせて、ただ機構となって《世界の脅威》を打ち倒すだけの存在になっている。

「ごめんね。なんだか眠くなってきちゃったんだ……せっかく会いにきてくれたのに……ごめん……」

 そうして、溝口君は眠りにつく。溝口君の時間、溝口君ではない何かの時間、眠る時間。私はこの時間を待っていた。

 台車を使って、溝口君を親から盗んだ車に乗せる。

 見様見真似で車のキーを押し込んで、エンジンを始動させる。

 もう人の住んでいない地域へ向けて車を走らせる。街の人たちはみんな夢ごごちで気が付かない。

 私がこれからやろうとしていることは、きっと世界にとって良くないことなのだろう。

 溝口君を連れて遠く、遠くへ逃げる。

 きっと、私は世界の敵とみなされて溝口君に殺される。私がしていることは、人類を危険に晒すことで、私がしていることは自分勝手なことだから。

 車を走らせる。速度は限界まで加速していて、それでも道路には何もなくて私たちの道を阻むものは何もない。

 溝口君が守ろうとしているものが人類そのものなら、彼が目覚めた時に私は殺されるだろう。きっと、声も出す間もなくあっさりと。

 でも、と私はどうしようもないことを考えてしまう。

 もしも溝口君が私たちの人々を守ろうとしているのではなくて、私を守ろうとしているのなら。私のために今の残った世界を守ろうとしているのなら。私とどこまでも遠くへ逃げてくれるなら。

 そう思いながら車は走り続けていく。

 溝口君はまだ眠っている。

 何もかも間違えているはずなのに、車を運転する私の心は驚くほどに軽やかだ。

 私たちの周囲を薄靄が漂い始めていた。〈了〉

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