第71話 老人と宰相
老人は長い廊下を歩いていた。床には赤く、複雑な模様の描かれた絨毯がずっと先まで続いている。その両脇には様々な豪華を極めた装飾品がずらりと並んでおり、まさに豪華絢爛といった様相を呈していた。
その廊下はかなり長く、広かった。だがそれにも関わらず歩いているのは老人一人だけだった。普通であれば使用人や、貴族たちが歩いていてもおかしくはないはずだ。
その広く、そしてひっそりとしている廊下を進んでいき、そして、老人はある部屋までたどり着くと、ゆっくりと部屋をノックした。
「...誰だ」
中からは若い男の声が聞こえてきた。誰何の質問に対し、老人は静かに答える。
「ワシじゃ。ウェムーじゃよ。宰相殿、少々時間をいただいてもよろしいかの?」
「...入ってください」
入室を許可された老人はその大きな扉をゆっくりと開いた。その中には様々な書類が山積みになっている机と、その近くに乱雑に置かれている椅子があった。
部屋の中は外の廊下とはうって変わって装飾のようなものは一切飾られておらず、実用品しか置かれていないようだった。その部屋の主の性格が表れているようだ。
「相も変わらず殺風景な部屋じゃのう...少しくらい飾りでもつけてみればどうかね?」
部屋に入った老人がそうつぶやくと、机の前の椅子に座っていた人物がそれに反論する。
「...皇帝の間や祭壇のような人が集まるところならまだしも、なぜ宰相の執務室まで飾る必要があるのか...私には理解不能ですがね」
「人が来た時にどうするんじゃ。この殺風景な部屋をみたらセンスのない男だと思われるぞい」
「別に構いませんよ。それにこの部屋に来るのはあなたくらいでしょう...ウェムー老師」
そう言ってその人物は眼鏡をくいとかけなおした。その男はまだ年若く、20代くらいのように見えた。そのような若者がこの帝国という巨大な国の宰相をやっているのだろうか?
部屋に文句をつける老人に対し、その男はあきれたような表情をしながら、手元の書類をばさりとめくった。
「それで?無駄話をしに来たのなら、帰っていただきたいのですが?こちらも暇ではないのです」
「まあまあ、そうせっかちにするでない。...王国のライゼンバッハのところにあった研究所の話じゃよ」
”王国”...その言葉を聞いた宰相の表情は今までのあきれた表情とは打って変わり真剣なものへとなった。
「...王国...ですか。それで?」
「実はのう...ライゼンバッハ伯爵に言われて研究中の魔物を貸してやったのよ」
その老人の言葉に、それまで完全に無表情だった宰相の顔が少しだけ崩れた。
「...そんな報告は受けていませんが...」
「伯爵もかなり急いでいてな。その場で返事するしかなかったのじゃ」
「...だとしても事後報告くらいはしてください」
すまん、すまんと老人は軽く謝りつつも更にその続きを話す。
「それでのう...貸した魔物がどうやら冒険者にやられてしまったようなのじゃ」
「な、なんですって!」
先ほどはがれかけた仮面が今度は完全に崩れ去った。宰相は椅子をけ飛ばすようにして立ち上がると、詰め寄りながら老人に問い詰めた。
「それで!状況は!」
「その冒険者達はすでに町に戻っておるようじゃ。今から手出しするのは難しいじゃろう」
「...最悪だ...」
宰相は頭を抱えるようにうめいた。研究がバレてしまった上にその事実を知った冒険者は町へと戻ってしまった。今から始末しようが情報はもう敵にわたってしまったと考えた方がいいだろう。
「まあ、そう悲観するでない」
老人はゆっくりと自分のひげをしごきながらのんきなことを言う。この状態を引き起こした張本人のその発言を聞いて、宰相は何とも言えない表情になった。
「...あなたがそれを言いますか」
「もう死体の方は回収しておる。残るのは冒険者達の証言だけ...そう簡単にはギルドも動くまいて」
「...」
老人の指摘した通り、確かに証拠として残るのは冒険者の目撃情報だけ...更に、死体が無ければその情報が本当かどうかすらわからない。
「それに、ライゼンバッハ伯爵も隠ぺいに動くじゃろう。そう簡単にこちらには気づかんよ」
「...相変わらずあなたは楽観的だ」
「まあなるようになるもんじゃよ。長く生きてるとわかるようになる」
ふぉふぉふぉと笑いながらあごひげをいじる老人。その様子を見て、今まで眉間に深いしわを寄せていた宰相だったが、大きく息を吐いて椅子へと座りなおした。
「...致し方ありません。今回は見逃しましょう。...次はありませんよ」
「ほっほっほ。寛大な宰相殿に感謝するぞよ」
「ほっほっほではありません。全く...」
どこまでも飄々とした態度を崩さない老人に、宰相はあきらめたように首を左右に振る。
その宰相の姿を目に収めながら、老人は世間話をするかのような口調で話し始めた。
「まあ、今回の件、バレてもそこまで影響なかろう」
「...どういう意味ですか」
「もう動いているのじゃろう?...火竜の件じゃよ」
「...!なんのことでしょう...」
宰相は一瞬動揺しかけたが、鉄の精神でそれを無理やり抑え込むと、何も知らないかのようにしらばっくれた。
だが、宰相と付き合いの長い老人にはその動揺は隠しきれていなかったようだ。
「研究所の所長のワシの目を欺くのは無理じゃよ。ワシはここで行われているすべての魔物の研究とその内容を覚えておる。最近になって急に火竜の研究が止まっておってな...不審には思っておった」
「...」
「そして、風の噂によると王国内で火竜が暴れて大きな被害を出したそうじゃ。...どうかね?」
老人のその探るような視線を受けながらも、宰相は何事も無かったかのように返す。
「たまたま火竜が出てきた。運が悪かった...としか言えませんね」
「本当にそう思うかね?研究が止まったことと全く関係が無いと?...それは少し無理があるじゃろうて」
「...」
老人の追及に対して少しの間黙り込んでいた宰相だったが、やがて仕方がないといったようにため息を吐いた。
「...研究所から逃げ出したのでしょう。火竜は強大ですからね。抑えるのに失敗した...それだけのことです」
宰相は認めるつもりはないようだ。そんな彼に対して老人は最後の一言を浴びせた。
「そうじゃのう。そう思ってワシも研究所の奴らを問い詰めたのよ。だが、何を聞いても何も喋ろうとせんかった」
「...なにが言いたいのですか」
「つまりワシより立場の上のものに口止めされていた...というわけじゃよ」
”のう。帝国で二番目に偉い宰相殿?”そう言った老人の言葉には多分の皮肉が込められていた。
流石にここまで理論立てて突き詰められてしまえばもう誤魔化しようがない。宰相は先ほどよりも更に大きなため息を吐くと、渋々といった様子でそれを認めた。
「...そうです。作戦は動き始めています。火竜の件はその第一歩ですよ」
「ほほう。やはりそうじゃったか。最初から認めておけばいいのにのう...」
老人が嫌味を言うようにポツリとつぶやくと、宰相は嫌そうな顔をしながらそれに答えた。
「この作戦は機密中の機密です。先ほどおっしゃっていた研究員も含め、既に何人か協力していただいていますが、作戦自体は私と皇帝しか知りません」
「...やけに慎重じゃの。なぜそう怖がるのじゃ」
帝国は大きく力のある国だ。そこの宰相ともあろうものが、裏でこそこそと動き回る必要はあるのだろうか。
老人がその事を指摘すると、宰相はじっと目をつぶって静かな声でそれに答えた。
「...この作戦。失敗するわけにはいかないのです」
「...今の帝国の国力ならばそう焦らずともじっくりやっていけばよいと思うがね」
既に順調に周りの小国は取り込み始めている。そう焦らなくても後十年もすれば、帝国はこの大陸の覇者になれるだろう。わざわざ策を弄する必要も無いはずなのだ。
「...それでは時間が足りない。間に合わない...間に合わないんだ...」
宰相は絞り出すような声で呟いた。その声は非常に小さく、独り言のようだった。
「...今、なんと?」
「...いえ、単なる独り言です。作戦はうまく進行しています。あなたが気にすることではありません」
「…冷たいのう。もうちっと老人には優しく接してほしいものじゃ」
老人が文句を言うが、宰相はそれに取り合う様子もなかった。
「…そんなことより、先ほどの作戦の件は絶対に口外しないでください」
「口外するもなにも何も聞いておらんからの。口外すること自体がないわい」
「...作戦がある。その事実ですら口外していただきたくないということです」
そう言った宰相の目は真剣だった。その瞳には強い意思を感じる。
「…わかったわい。全く…秘密主義も程々にするんじゃぞ」
「…申し訳ありません」
老人が致し方ないとそれに頷くと、先ほどまでとはうって変わって、宰相はしおらしい態度で老人に謝った。
老人はその宰相の様子をしばらくじっと見つめて、そして声をかけた。
「…お前のことだから、聞いても答えてはくれんのじゃろう」
「…」
宰相はその質問に対して沈黙で答えた。つまりそれが答えだということだ。
「…ルスラン。無理はするなよ」
「はい…先生」
老人はその言葉を聞くと、そのまま部屋を出ていった。その後ろ姿を宰相はじっと見つめていた。
「今は…無理をしてでもやらねばならないのです…」
宰相は噛み締めるように、独り言を呟くと、また机に向かって書類仕事を始めるのであった。
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