第30話 脱出と報告
森の中から現れたその赤い大蜘蛛はいきなりこちらに襲い掛かることはせず、様子を見るかのようにこちらを向いて動かなかった。その口元には牙が見えており、毒液がたらりとその牙を伝って地面に落ちた。
(クソッ...なんつうタイミングだ...! ここまで町の近くに移動してたのか...!)
ここまでずっと発見情報のなかった変異種の赤い大蜘蛛に、こんな森の浅いところで出くわすとは思っていなかった。見たところ大きさ等は普通の大蜘蛛とそこまで変わらないようだったが、なんといっても毒が危険すぎる。
ここでこのまま戦うことになれば誰かが犠牲になる可能性が非常に高い。
「いいか...あれは変異種の大蜘蛛だ。噛まれたら相当ヤバいことになる」
「そ、そんなこと言われても...に、にげるっすか?」
戦うことはできない。だが、ダッドが言ったようにこのまま背中を見せて逃げることもできなかった。いくら大蜘蛛の動きが遅いとは言っても森の中でその追撃から逃げ切るのは困難だ。追いつかれてもれなく餌になってしまうだろう。
(それに逃げるにしても荷物が重すぎる...! 捨てていけば逃げれるとも限らないが...)
そこで、ワロウは一つ閃いた。
(待てよ。これの中身は肉なんだ。それなら...)
「...普通に逃げるのは厳しい。まあ見てろ」
そういうとワロウは大蜘蛛の方を警戒しつつ、慎重に自分の背負っていた背嚢の中からフォレストボアの肉塊を取り出したかと思うと、大蜘蛛の後ろの方へ向かって思いっきり投げつけた。
「えッ!! 何やって...」
大蜘蛛は急にとんできた何かに対して一瞬警戒したようで身構えた。だが、飛んできたものが上質な肉だと気づいたようで、すぐにそれを追ってその場を去っていった。
「おい! 何ボーっとしてやがる! さっさとずらかるぞ! 」
ハルト達はその様子を呆然として眺めていたが、ワロウに急かされて正気に戻る。
そして4人は大蜘蛛と出会った場所から命からがら離脱することができたのであった。
そこから後は4人ともほぼ無言でとにかく森の中を抜けることだけに集中した。幸いなことにそれ以上魔物との遭遇は無かったので、完全に暗くなる前にはディントンの町の門が見えてきた。
町が見えてきたことでようやく緊張の糸がほぐれたのか、ダッドが安堵のため息を吐いた。
「ふぅぅぅぅ......あ、危なかった....素材、あいつに投げつけちゃったすけど依頼の方は大丈夫っすかね...」
「冒険者は生き残ることが最優先だ。依頼のことを考えるのはその後だっつーの。...まあ今回は量的には問題ないだろ。かなり大きい個体だったからな」
「そ、それを聞いてさらに安心できたっす...」
ぐぅぅぅぅ.....
その時ダッドのおなかが鳴る音が聞こえた。一息つけてようやくいつもの調子に戻ってきたようだ。
「あ、あはは...安心したらおなかが減ってきたっす...」
「オレも腹減ったよ。今日も昼飯抜きだったし...」
「わかった、わかった。さっさとギルドに行って完了報告をするぞ。依頼人はゴゴットだから、依頼を完了したって言えばきっといいもん食わせてくれるぜ」
「ああ、そういやそうだったっすねえ...ちょっと楽しみになってきたっす」
「だったらさっさと戻ろうぜ! ほら、早く早く!」
「わ、わかりましたから、引っ張らないでください...」
待ちきれなくなったのかシェリーの腕をハルトが引っ張る。それを迷惑そうにしながらも、シェリーの歩みもさっきよりも早くなっている。なんだかんだ言って彼女もおなかが空いているのかもしれない。
そんな彼らの様子を見ながら、思わずワロウは笑ってしまった。
「...ククク...全員腹ペコみてえだな...そんな慌てないでも飯は逃げねえさ」
そう言いつつもワロウの足も自然と早くなる。今回の依頼はフォレストボアの討伐と解体、変異種の大蜘蛛からの逃走などでかなりのエネルギーを使った。ワロウだって腹ペコなのは同じだ。4人とも空腹に背を押されながら町へと急いだのであった。
ワロウがギルドにたどり着いたとき、ギルド内は冒険者でいっぱいだった。夕方は冒険者達が依頼の完了報告に来るので基本的に空いていることはほとんどないのである。
「やれやれ、相変わらずだな。...どうしたもんか」
「うーん...この肉を持ったまま店には行きたくないっすけどねえ...かといってこの列にずっと並ぶっていうのも...」
「えーっ! もうこれ以上待てないぜ!」
今から列に並び始めたのではいつ納品できるかわからない。かといってこの荷物を背負ったまま店に行くというのもあまり気が進まない。今いる冒険者たちをどかせればいいのだが、当然そんなことはできない。
どうしようかと考え始めたワロウは一つ忘れていたことを思い出した。
(そういや...赤い大蜘蛛のことも報告しなきゃいかんな...ん?そのときにボルドーに直接言って何とか依頼完了にしてくれねえかな...)
「よし、ちょっと待ってろ。ボルドーに直接話せばいけるかもしれん」
「直接ギルドマスターに言うんすか?だ、大丈夫っすかね...?」
「今回はきちんとした理由があるからな。...なあ、忙しいところ悪いがボルドーに面会したいんだが、今、大丈夫か?」
ワロウは忙しそうに動き回っている職員に声をかけた。ギルドマスターに面会したいと言うと、一瞬怪訝そうな顔をされたがすぐに納得したような顔になった。
「ああ、指導の件ですね?今日の依頼で何かあったんですか?」
「...まあ、そんなところだ。今日の依頼で少し...な」
本当は違うがここで話すのも面倒だ。ワロウが適当に返事をするとその職員は”少々お待ちください”と言ってすぐにギルド長室へと向かっていった。そして少し待つと先ほどの職員が足早に戻ってきた。
「今、お時間は大丈夫だそうです。ギルド長室までご案内しましょうか?」
「いや、結構。場所はわかってるから大丈夫さ。忙しいところ悪かったな」
ギルド長室は何度も言ったことがある場所だ。今更迷うことはない。案内を断ると“わかりました”と言ってその職員は受付の方へと戻っていった。依頼の処理へ向かったのであろう。
ワロウは早速ギルド長室へと向かい、扉をノックをする。すると、すぐに”入れ”と声が聞こえたので扉を押し開けて中へと入っていった。部屋の中ではいつも通りボルドーが書類の処理をしていたが、ワロウたちの方をちらりと見ると手を止めてこちらに向き直った。
「緊急の用件だと聞いたが?悪いが金を貸すことはできないぞ」
「冗談ならそんな硬い顔しながら言うんじゃねえよ。本気かと思うじゃねえか」
「むむ...そんな硬い顔をしていたか。人と話す機会がめっきり減ってしまってな。表情筋を使っていないんだ。最近ずっと書類整理に追われているから...全く」
ワロウに硬い表情だと言われて、ボルドーは自分の顔をつまみながら愚痴を言い始めた。
どうやら最近は書類仕事で忙しいらしい。
が、すぐにそんなことを話している場合ではない思いなおしたのか、ワロウに話の続きを促した。
「で、何の用だ。いいことでもあったのか?」
「残念ながら悪い方だな。...変異種の大蜘蛛に遭遇した」
「なんだと?」
ワロウのその言葉を聞くと、ボルドーの顔が一気に険しくなった。今までギルドも変異種の大蜘蛛の目撃情報を集めたり、再度ボルドー自身が偵察に向かっていたのだが、最初にベルンのパーティメンバーが噛まれて以来その姿は目撃されていなかったのだ。
「どこであった?」
「森の中に谷があるだろ?あそこと町の中間ぐらいだったな」
「...かなり町に近いじゃないか。くそ、どうにも情報が集まらんと思っていたがそんなところまで移動していたのか...」
「討伐はできそうか?」
探していた魔物が見つかったのなら次に真っ先に思いつくのは討伐だ。だが、ボルドーは渋い顔をして首を振った。
「いや...今うちのギルドにいるパーティでは危険すぎる。解毒薬があるなら、多少無茶すれば狩れるとは思うが...」
「解毒薬の方は期待しないでもらいたいね。キール花の在庫があるなら話は別だけどな」
今いるパーティでも解毒薬さえあれば、噛まれても多少ごり押しで勝つことはできるだろう。実際に、普通の大蜘蛛を狩るときは毒をくらいながらでも強引に攻撃を当てて倒しに行くことが多い。
そうでもしなければ、非常に硬い大蜘蛛を倒すことは難しいためだ。もちろんこれは通常種の大蜘蛛にだけ通用する話であって、毒性が強くまともな解毒薬がない変異種に同じことはできない。
つまり、この変異種を今いう冒険者で狩ろうとすれば、噛まれてそのまま死んでしまう可能性が高いのだ。ボルドーもギルドマスターとして向かわせた冒険者が死ぬ可能性が高い討伐依頼を出すわけにはいかないだろう。
「最悪俺が狩りに行くという手もあるが...」
「...何を言ってやがる?書類仕事のし過ぎで頭がおかしくなったのか?どこのギルドに自分で魔物を倒しに行くギルド長がいるんだよ。お前がもし噛まれて死んだりしたらギルドが崩壊するぞ」
「冗談だ。真に受けるんじゃない」
「...嘘つくなよ。結構本気だっただろ?」
長年の付き合いだ。冗談言ってるのかか本気で言ってるのかは大体わかる。ワロウが疑いのまなざしでボルドーを見ると、ボルドーは明後日の方向を見て視線を合わせようとしない。図星だったのだろう。
「仕方があるまい...とりあえずしばらくは夜の森は立ち入り禁止にするしかないな」
「大蜘蛛も夜行性だったっけか」
「ああ、餌を横取りするなら森狼の行動時間と合わせる必要があるからな。地域によっては昼行性の魔物から餌を横取りするために昼活動するのもいるらしいが...」
「ふーん...成程ね」
「話はそれだけか?」
「ああ....あ、いやもう一個あったな」
(危ねえ、忘れるところだったぜ)
大蜘蛛の話に夢中になっていて、本来の目的を忘れかけていた。
ボルドーに頼んでフォレストボアの依頼を達成にしてもらわなければ、納品するためにあの長い行列に並ぶ必要が出てきてしまうのだ。ワロウは慌ててボルドーに本題を切り出した。
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