042

 脅威はある、あの山の向こうに。あの峻険な魔峰の奥に。

 もどかしい。今は動けない。この雪が融けるまでは。


 激甚災害指定個体、通称大魔王の発生。


 千年の歴史を持つ我が国の史書を紐解いても、その名称が記されているのは僅かに一度だけ。それはこの国の建国の記録。

 およそ千年前に起こった大災厄。猛獣大魔王によるヒトの蹂躙と屈辱の歴史。

 大陸のほぼ全土が蹂躙され、ヒトがエサとして喰われ、家畜として尊厳を踏みにじられた、恐怖と屈辱の時代。

 それに対してヒトが立ち上がり、大魔王を滅して世界を解放したのがこの国の成り立ち。ここがヒトの再誕した地、神聖ルーマス教国。

 故にこの国は、常にヒトに平穏と希望を齎さなければならない。それが国是にして神聖教最上の教義。


 大魔王の討伐。

 それは使命。大いなる神のご意思。


 神言を賜ったのは、教皇猊下と私、その他八名。いずれもこの国の中枢に位を置く者たち。聖者。

 会議は紛糾した。

 討伐軍を出すことについてではない。議論の争点は、その規模と時期について。


 討伐軍は早期に出すことが望ましい。大魔王が力を蓄える前に、侵略を開始する前に。

 しかし、この国から大魔王の居る中央大山塊までは、冬の間は深い雪に閉ざされる。その雪が解けるのは、早くとも五月。

 それでは手遅れになるかもしれない。雪が融けると動き出すのは大魔王も同じだろうから。いや、雪を苦にしない大魔王であることも考えられる。早ければ早い方がいい。雪が融ける前に仕掛けたい。

 雪中行軍には危険が伴う。低温、悪天候、雪崩、崩落。

 しかも目的地は魔境中の魔境。大軍では身動きが取れなくなる可能性がある。必然、派遣するのは少数精鋭。

 国内の戦闘可能な名持ちと兵力の全力投入。それが最善。

 しかし、魔境は中央大山塊だけではない。魔物は辺境以外にもいる。治安維持にも兵力は必要。

 そうして決まった方針は、名持ち十五名とその援護五百名の派遣。人員再配置と編成のため、出兵は三月の上旬。大魔王の元へ辿り着くのは四月になる予定。


 この五百と十五名は生きて帰れないかもしれない。魔境に屍を晒すことになるかもしれない。その可能性は高い。限りなく高い。

 相手は大魔王、しかも名持ち。それは千年前の大魔王にも無かったこと。その脅威は図り知ることができない。正に神のみぞ知る。

 しかし、それでも、だからこそ行かなければならない。全てのヒトのために。世界を守るために。


「聖者ユリアン様、教皇猊下がお会いになられるそうです。青海せいがいの間へお越しください」

「承知した。ご苦労」


 南向きの窓から視線を戻す。部屋の入口の司祭は頭を下げたまま。その横を通り過ぎて青海の間へ向かう。

 聖者の法衣は長く重い。足に絡む。歩は遅くなる。それでも可能な限り急ぐ。至高の御方を待たせられない。

 歩きながらも思考を続ける。


 王国の勇者は既に出征したと聞く。ノイン大砂漠を南に迂回し、山脈沿いに走竜の狩場を北上して中央大山塊へ向かうらしい。規模は二百人。名持ちは勇者のみ。

 走竜の狩場は魔境だ。走竜のみならず、強力な魔物が跋扈している。危険は大きい。

 しかし、大砂漠は人が生きられる環境ではないし、大砂漠の北に広がる囁きの森は雪に覆われている。その進路しか取れなかったというのが実状だろう。

 どちらにしろ大回りになる。雪が無いとはいえ、大魔王の元まで辿り着けるのは、あちらも早くて四月になるはずだ。

 現地で合流できれば、共同戦線を張ることが出来るかもしれない。そうなれば勝率が上がる。被害も減らせるかもしれない。

 都合の良い話だ。しかし、神の導きがあればそれは叶う。そして、神は常に我らの傍にある。


 皇国も既に出兵し、そして敗北したらしい。

 百人超の兵と名持ちひとり。それが全滅。只のひとりも戻ってこれなかったそうだ。

 調査隊によると、荒鷲のエサ場の途中、ナリブ川中流域に戦闘の痕跡を見つけたそうだ。大量の血痕と兵の遺留品。周囲に残った傷跡から、鎧熊と呼ばれる魔物との戦闘になったらしいとされている。

 そこから更に上流の川原に木を伐った痕跡があったようだが、野営の跡は無かったそうだ。

 足取りを追えたのはそこまで。そこから先には、戦闘の痕跡も行軍の痕跡も見つけられなかったそうだ。


 忽然と消えた百人以上の軍隊。

 もしこれが事実なら、大魔王の仕業なら、我等も考え直さなければならない。五百人では大魔王の元にさえ辿り着けないかもしれない。

 まだ出兵前だ。今なら計画を修正できる。各国と協調して連合軍を編成し、出兵する。

 ヒトの故国たる我が国が声を上げれば叶うはずだ。伝令を飛ばせば勇者を呼び戻せるかもしれない。

 戦力の集中は軍略の基本。大軍に勝る軍略はない。

 恐れ多くも、既に決定したことを取り下げることを猊下にお願いしなければならない。気が重い。

 しかし、これも世界の為、聖者の務め。温厚な猊下がお怒りになられるとは思わないが、そのときは我が身を以ってしてでもお諫めしよう。


 青海の間の重厚な扉が目の前に。

 願わくば、この扉とともに世界の平和への道が開かれんことを。



「きゃきゃあぁーっ!」

「ははは、楽しいかい、キキ」


 たまにはお外で遊ばないとな。まだキキは歩けないから、常に俺が抱っこしてなきゃいけないけど。

 北のトンネルを抜けた先は相変わらずの雪だけど、綺麗な未踏のパウダースノーが積もるゲレンデでもある。

 俺お手製のそりで滑るには持ってこいだ。斜面の上部に種を置いておけば、亜空間経由ですぐに戻ることが出来る。リフト要らず。

 それに、身体が冷えたらすぐに本体の家に戻ってお風呂にも入れる。お湯を沸かすのも魔法。なんて平和な魔法利用だ。


「きゃきゃあぁーっ!」


 キキの笑顔が可愛い。まるで天使のようだ。いや、天使に違いない! 天使と書いてキキと読むのが正しいのだ!

 親バカ? バカ親? 何とでも呼ぶがいいさ! 子供のためならいくらでもバカになれる、それが親ってもんだ!


 天気はいいし、風も心持ち暖かい。春は近い、かも。

 ああ、今日も世界は平和だなぁ!

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