『海』

@moratorium17

『海』(一話完結)

 この道をしばらく歩くと、海がある。今は冬だ。砂浜には誰もいない。

 ある少年は、その夜、海を見に行った。暖かい靴下を履いて、手袋をつけて、マフラーを巻いて海へ行った。

 右手の防風林が途切れると、潮の匂いがぐっと強くなる。高さ1メートル程の堤防が、弓のような弧を描きながらずっと先まで伸びている。堤防の切れ目まで歩き、階段を使って砂浜へ降りる。潮騒を聴きながら波打ち際ぎりぎりのところまで歩いて、腰をおろす。波がここまで来ないことを確認すると、少年は視線を上げた。

 やはり海は広い。少年がどう頑張ろうと、母なる海は彼の視界からはみ出した。月光が強く、海の青さがよくわかる。空は澄んでいて、たくさんのを繋げることができた。

 頬を刺す冬の潮風に耐え兼ねた少年は、膝を抱え、その頂上に顎をのせる。それからただひたすらに、目の前の景色を眺めた。時計は身につけていない。だから時刻はわからない。

 目の前の景色と自分の意識の区別が付かなくなり始めていた。しかし、冷たい水の感触が、足先に広がる。少年は驚いて立ち上がった。潮が満ち始めていたのである。

 ふと、少年は背後に誰かの気配を感じて振り返った。誰もいない。今度は気配を海の方に感じる。おそるおそる前方に向き直っても、やはり、何もない。

 彼は恐怖を覚えた。潮騒響く波打ち際から人の手が伸びてくる気がした。身震いして後ずさるが、誰かいるかもしれないという気配はすでに全方位に充満している。身動きがとれなくなった。怖くて逃げることもできない。彼は顔をくしゃっと潰して目をつむり、そんなことをしてもどうにもならないということは重々承知で、その場にうずくまった。

 耳を塞いで自分に言い聞かせる。堤防までは30メートルほど。このままじっとしていていいわけがないと、心の中で叫んだ。

 少年は目を瞑ったまま、潮騒を頼りに体を堤防の方向へ回転させ、腹を括った。

 顔はくしゃくしゃのまま、重力を振り切るように走り出した。風が耳で鳴る。恐怖と気配に圧倒されて背中は反り返り、堤防を感知できるように両手を前に突き出して、足を回す。

 腹の中で数えていた30メートルに到達するすぐ手前で薄目を開け、堤防らしき物体を確認すると、走力を惰性に切り替え、両手で衝撃を吸収しながら堤防に激突した。

 遅れてやってきた風が後頭部に触れる。息を整えてゆくと、背中の気配も薄まって、少年は安堵した。視界の右手に階段があることを確認し、そちらに向かって歩き出す。海が不気味なものに感じられる。しばらくの間ここへ来ることはできないだろうと少年は思った。

 階段に足をかける。ふぅっと溜息をついて、顔を上げた。

 数段先に少女が1人、立っていた。セーラー服をまとっている。

「あ。」

 足がなかった。

 膝から地面へ向かって、足はどんどんと薄くなってゆく。足首から下は完全に見ることができない。けれど、本当に不思議なことに、恐怖は湧き上がって来なかった。恐らくそれは、彼女があまりにも美しかったからだ。

「見えるの?」

 誰かの声を美しいと感じたのは初めてだった。

「・・・はい。」

 潮風が吹き付けても、少女の長い髪は揺らがない。

「ねえ、逃げよう。」

 少女は唐突にそう言った。

「え・・。」

 少年は混乱した。

「あの防風林の中に、手漕ぎのボートがある。私とそれに乗って、海へ逃げるの。」

「逃げる?」

「逃げる。」

 少女は確かな確信を持ってそう言っているように、少年は感じた。

「人魚なの?」

「ちがうよ。」

「じゃあ、ちゃんと説明してくれたら考えるよ。」

「ボートに乗ってくれたら説明するわ。」

 少年は少し腹が立った。

「いきなりすぎるよ。まず、君が何者なのかもわからない。命を奪われるかもしれない。だから・・・その・・あなたは何か僕に助けを求めているのかもしれないけれど、僕はボートには乗れない。」

「そう。だったら私1人で逃げるわ。」

 少年はさらに腹が立った。少女の持つ不思議な魅力は、やはり彼女が人魚であることの象徴なのではないかと彼は考えた。少年は少女を無視して、再び階段を登ろうとした。が、ふと視線を落とした時、少女の膝から下は完全に消失し、彼女のスカートまで薄くなり始めていることに気がついた。

 少年は、少女の顔を見た。

「あなたの心配は、半分正解で、半分間違ってるわ。」

「またそうやって抽象的にする。」

「時間がないの。」

 少年は、言い返すことができなかった。数秒の間、考え込むような振りをした。

「人魚じゃないことだけは誓ってくれる?」

 少年はそう切り出した。

「誓うわ。」

「なら、案内して。」

 防風林へと向かう彼女に付いてゆく。

 彼女の足を、少年は視認することができない。けれど、彼女の上半身は、足で歩いているかのように規則正しく上下に揺れる。

 僕が見えていないだけなのだろうか。少年はますます訳がわからなくなった。

 防風林を抜けた砂浜には、彼女の証言通り、月光に照らされた木製のボートが鎮座していた。

「せえーのっ!」

 ボートを海に押し出し、2人乗り込んで、少年は2本のオールを取った。こればかりは、彼女に漕がせるわけにはいかないという、男の見栄だった。

 波に合わせて上下するボート。頼りといえば月光のみという状況に、少年は少しだけ、わくわくした。

「漕いでくれるの?」

「うん。」

「ありがとう。」

 少女は優しい笑顔を見せた。少年は思わず彼女から目を逸らした。左手には、つい先ほどまで彼が海を眺めていた砂浜がある。

「なるべく沖まで出て欲しいの。」

「こんな手漕ぎのボートで?」

「しんどいようなら遠慮なく言って。交代しましょう。」

「いや、まだ大丈夫。」

 手漕ぎのボート中で、少年は、足のない少女と2人きりだった。

 ボートはぐんぐん進んだ。心なしか、彼女の足は、沖へ出るにつれて消えてしまった部分を取り戻りつつあるように少年は感じた。

 月を眺めていた少女は、ボートを漕ぎ続ける少年の方へ向き直り、真剣な眼差しで彼を見つめた。その表情は、一抹の悲しみを隠している。

「何から言おうかな。あのね、今から話すことは本当に真剣なことなの。難しいかもしれないけれど、出来る限り信じて欲しい。」

「善処するよ。」

 少女は微笑んだ。

「まず1つ、ここは地球じゃない。私もあなたも、肉体を失ってしまった存在なの。ここに居る人はみんなそう。」

 少年はオールから手を離した。けれど、少女の言っていることが遠くにありすぎて、他人の世間話をこっそりと盗み聞きするような構え方しかとることができない。

「つまり・・いやちょっとまって。」

「待つわ。」

 少年は、少女の発言を必死に咀嚼して、なんとか腹の中に押し込もうとした。

「まだ実感はできていない。把握はしたけれど、理解には及んでいない。」

 少年は、ボートの板張りを見つめながら言う。

「当然だと思うわ。」

「つまり・・・僕らはすでに死んでいるってこと?」

「厳密には少し違うの。肉体を失ってしまっただけで、魂は生きている。」

 少女は続ける。

「あなたはきっと、あの砂浜にいる時間以外の記憶を思い出すことができない。そうね、強いて言うなら、あの砂浜は、いわゆるなの。」

「よくわからない。」

 少年は再びオールを手に取った。

「あそこは境界線。私は消えかけているのではなくて、あの砂浜に行くとを思い出すの。砂浜の向こうの世界は、魂の墓場。あなたが感じていた気配は、たぶん新たに流れ着いた魂たち。」

「ちょっとまって。僕のあの醜態を見ていたの?」

 少女はあの時の僕の真似をした。

「おい。」

 少女は吹き出した。

「あの砂浜で一番怖かったのはあなたよ。」

「最悪だ。死にたい・・。」

「それは面白い冗談ね。」

「そうなるのか。やっぱり実感湧かないよ。」

 少女は再び表情を引き締める。潮風に揺らがない髪と、時の流れを忘れさせる顔立ちは、月光の下で少年を魅了した。

「あなたには、決断をしてほしいの。」

「決断?」

「あなたはあの砂浜で、一時的だけれど、を思い出した。生きたいと願うなら、私と来て。どうなるかはわからない。けれど、この永遠の盲信から抜け出すことはできる。」

「やっぱり、何もわからないよ。」

 少女は、やはり悲しみを隠している。

「でも、何もわからないけれど、あなたが行くなら僕も行こう。」

 少女は目を丸くした。

「違うの。そうじゃなくて・・・。」

 少年はオールから手を離して膝をつき、少女の腰に右手を回した。華奢な感触を認識する。彼女の足も、ほとんど元の姿を取り戻している。

「そうじゃなくて・・・。」

 少女は抵抗しなかった。月光に照らされた海に、1つの歪な影が浮かび上がる。互いの唇がゆっくりと沈んでゆく。この海で、生命の音だけが沈黙した。

 その瞬間が過ぎると、少女は俯きながら言った。

「天の川。」

「天の川?」

 少年は夜空を見上げた。

「目的地はそこ。」

「どうやって行けばいい?」

「私たちは魂だから。」

 いつのまにか、砂浜は随分と遠くに位置していた。

 少女は少年の手を取って、安定感の無いボートの上で立ち上がる。

「飛び込むわ。」

「わかった。」

 少年は、少女の手を強く、強く握り返す。

 どこかの海で、誰も乗っていないボートだけが、ぽつんと漂っていた。

(終)

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