完璧な先手

「嫌悪の感情には双方向性がある。だから僕たちは先手を打つ必要があった。人間と知性強化動物の間に、嫌悪の感情が横たわるより前に」


【エオリア諸島サリーナ島 ポッラーラ地区】


海の見える谷間だった。

高山に囲まれ、真正面にはコバルトブルーの海を臨むローケーションに位置する小さな村。それを見下ろす斜面の広大な空間を走り回る子供たちは、転び、飛び跳ね、ぶつかり、そして楽しそうに遊んでいた。

「元気にもほどがあるな」

草地にひっくり返っているのはゴールドマン。通気性の良い、動きやすい服装に帽子といった格好である。さすがに寄る年波には勝てないか、その息は荒かった。走り回る子供たち相手では無理もない。

この四十年あまり繰り返されてきた行事を、引率してきたのだった。

スタッフは熟練の保育士たち。モニカやペレ。リオコルノ1名とドラゴーネ2名。キメラ1名。知性強化動物の絶対数が足りなかった黎明期ならばともかく、こういう仕事は可能な限り人間だけに任されはしない。知性強化動物の子供を育てるのだから、知性強化動物と共同で行うことに意義があると考えられていた。

そんなキメラのスタッフであるところのマルモラーダは、ゴールドマンの横でひっくり返っていた。

「もう無理……」

「ははっ。疲れたかい」

「そりゃあ疲れるわよ。ゴールドマンおじいちゃんこそ年寄りの冷や水じゃないの」

「そうでもないけどね」

よっこいしょ。と身を起こすゴールドマン。マルモラーダもそれに倣う。

「この島は穏やかだ。あの子たちにはいい刺激になるだろう」

「そうね。島の人たち、みんな親切だし」

「何十年も信頼関係があるからな。そのおかげだ。主にモニカの功績だよ」

「信頼かあ。昔の人も、知性強化動物を見て普通に接してくれたの?」

「まあ最初はよくわからない生き物だって警戒してたな。警戒だけならまだよかったが、それ以上のものを抱くのは時間の問題だった。考えてみれば一番危ない時期だったかもしれない」

「危ない?」

「ああ。一度嫌悪の感情を抱かれたら改善は困難だったろう。イメージができればそれが解消されることはなかなかない。嫌いになった相手の不快な言動を見れば「やはり嫌な奴だ」と嫌悪を強めるが、よいことをしても印象に残らない。確証バイアスだな。嫌悪の感情は双方向性がある。嫌悪を向けられた側も周囲に対して友好的になるのは難しい。こうなったらもう手遅れだ」

「知性強化動物が嫌悪の感情を持ってなかったらよかったんじゃないの?」

「そうもいかない。嫌悪は警報だ。危険を回避するためには正確さは邪魔になるんだよ。素早く判断しなくちゃならないからな。知性強化動物からそういった感情を除外するなんてことは無理だったんだ。特に社会性を司る道徳性の嫌悪に関してはね」

「ふうん。それでもうまくやったんだ」

「優秀な先駆者がいたからな。彼の手法を参考にできた。徹底的な宣伝戦だよ。これは人類にとっても福音だ。人類を滅ぼせる生物に対して、不必要で過剰な感情を抱かずに済む。という点において」

ふたりは、見た。人間の幼児同様に遊びまわっている、獣相を備えた子供たちの姿を。

まだ幼い神殺しの巨人テュポンたちは、いつまでも遊んでいた。




───西暦二〇六三年六月。知性強化動物誕生から四十三年目、人類製第五世代型神格が実戦投入される四年前の出来事。

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