名無しは不便
「じゃ、決まり。君の名前はローザだ」
【
晴れ渡った空だった。
遥かな高空を横切っていくのは無数のキラキラした機械の破片。尋ねるとどうやら自分以外には見えていないらしいそれを、獣人の少女はしばし眺めた。
少女は覚えていなかったが、それは人類に破壊された人工衛星の残骸だった。衛星軌道上に存在するそれらが失われたことで神々の監視網や通信網に穴が空いたのも一行が未だに無事に旅を続けられる理由の一つだったが、今のところ誰も気付いてはいない。
「なにか見える?」
「何でもないよ」
先を進むのっぽに答え、歩みを再開する。
総勢四名に増えた旅人たちが進むのは荒れ果てた大地だ。草原地帯で獣人の少女が拾われてからもう一月近くになる。あの晩、辛くも窮地を逃れた一行は、そのまま遊牧民のところに留まった。主人が数日間前後不覚になっていたのもあるし、少女が体を回復させるまでそれだけかかったということでもある。何より主人に止められたのだ。神々は周囲で聞き込みをするだろうからしばらく動かないほうが良い、と、身振り手振りまじりに。一行は同意した。次に出会う人々は今回のように体を張ってまで助けてくれるとは限らないし、何より自分たちが捕まればこの遊牧民らにも迷惑がかかる。代わりに子供たちは働いて恩を返した。見合うだけの働きができたとは思えなかったが。
別れのとき、遊牧民たちはいくつか餞別をくれた。今少女が着ているのもそれだ。顔を覆うように巻き付けているスカーフ。フード付きマントとしてかぶっている大きな荒布とそれを止める木製のピン。その下に着込んでいる衣装は何でも娘たちのお下がりだとか。目元まで姿を隠し、フードを被ればなんとか少女は人間にも見える。一行は感謝して旅立ったのである。
「それにしても、名前ないと不便だよね」
ちびすけが呟いたのは休憩中の事だった。湧き水を汲んで茶瓶で沸かしている最中である。
「ふべん」
「まだ思い出せない?」
「何もわからないよ」
少女が拾われたとき、身元のわかるものは何もなかった。いや、あっても子供達に理解できるものがなかっただけかもしれないが。徽章の類の意味についても、少女は覚えていなかった。すっかり元気になった今も、記憶は戻っていない。それでも、一行の事情を知った少女は付いてきた。遊牧民たちの所に残るのは危険が大きすぎたし、何より国連軍が自分の属する場所かもしれないからである。
「あの絵の入ったペンダントには何もなかったもんね」
「うん」
少女が取り出したのはロケットペンダント。唯一と言っていい、無傷の品物である。開くと中にあるのは少女と人間の男性の写る写真だったが、子供たちは写真というものを見たことがない。名前は聞いたことがあるにしてもそれと現物が結びつかないのである。すごい精巧な絵だと認識している。
「この人、誰だろう」
「……」
背後はどこかの山中だろうか。緑に覆われた自然豊かな場所で、今より随分幼い少女は微笑んでいた。
その傍らに立っているのは壮年の、屈強な男性。
ペンダントを手渡しながら見る一同。
「ありがと。見せてくれて」
持ち主にペンダントが返された時だった。カチャり、と。ロケット部分が開いたのは。
中から写真が滑り落ちる。
「おっと」
咄嗟にキャッチしたのっぽは、写真の裏に何やら書いてあるのを認めた。
「
のっぽが読めるのは養い親である老女が教えてくれた簡単な日本語だけだった。話すだけなら英語もできたが。少女との意思疎通も英語である。
「お父さんと。っていう意味だよ」
「読めるの?って読めるか……そういう記憶はあるんだね。他になんかないかな……」
調べるとロケットペンダント。写真が収まっていた裏には、手書きで
「ローザへ。って書いてあるよ」
「ってことは、このペンダントは君に贈られたもので、この絵は君が入れたってこと?」
「そうかもしれないよ」
「で、この人は君のお父さん…?」
「わかんないよ」
どう見ても似ていない。というか男性が人間なのに対してこの少女は明らかに別の生き物である。と言う事はこの少女を作ったのが、写真の男性なのだろうか。
そしてもう一つ。
「君の名前、ローザって言うのかな」
「思い出せないよ。でもそうかもしれないよ」
「だよねえ…。んじゃ、本当の名前が分かるまで、ローザって呼んでいい?」
「いいよ」
「じゃ、決まり。君の名前はローザだ」
「うん」
名前を取り戻した獣神の少女は、深く頷いた。
―――西暦二〇五二年。フォレッティ級が誕生してから八年、子供たちが惑星を徒歩で縦断しきる二年前の出来事。
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