謎のお爺さん
「刀祢くん、いつもこんなことしてるの?」
【東京都 栃木県日光市 山中】
問われた刀祢は顔を上げた。
「うん?まあそうだなあ。やってるかなあ」
野営地の設営中のことである。
飯盒とやかんに水を汲む刀祢の横で小川を見つめているのは、はるな。
二人とも山歩きに適した格好である。
はるなは、背後を振り返った。
そこに出来上がっているのは倒木に枝を立てかけただけの小屋。もちろん中に入れば虫の餌食だ。そうならないよう、相火が煙で燻蒸中である。かまどを小屋の風下に作ったのだった。上には
「三十一年前。いや二年だったかな?とにかく神戸から離れようとしててさ。奈良の集落を通りがかった時に、泊めてくれたおじいさんが教えてくれたんだ。あの時は何日くらいいたんだっけかなあ」
「色々教わったのは前に聞いたけど」
「うん。山歩きに役立つものを幾つも貰った。この飯盒とか、小刀とかは今も使ってる。杖を使って崖を降りたり登ったり。他にも色々あったけど、静岡のお祖母ちゃんの家に置いてきたからなくなっちゃった」
「そっか」
「泊めて貰ってる間、食べるものは毎日採りに行くんだ。お爺さんと一緒にね。山菜とか、川魚とか。虫とか。罠の作り方も教えてくれたけど、本当に最後の手段にしろって言われた。木を切って小屋を作るのも実演してくれたっけ。のこぎりで立木を倒して枝を掃うんだ。五分でできるんだよ」
「のこぎりなんだ。斧とかナタとか使うのかと思った」
「斧は木を切り倒す道具じゃないって教わったよ。直径四十センチの広葉樹でだいたい1・5トン。倒れる方向もよっぽど訓練を受けてなきゃ制御できない。僕は斧で木を切る度胸はないね。木が倒れてきてもへっちゃらな強化身体を持ってるんじゃなきゃ、お勧めしない。はるなは大丈夫だろうけどね」
水を入れた二つの容器を持って小屋に向かう二人。
「ハンターだったのかな、そのおじいさん」
「どうだろう。履物とか釣り具の作り方とか。逃げ方やカモフラージュの考え方も教えてくれたよ。動物とか、人間相手とか」
「人間も?」
「治安が悪化していく中だったからね。役立つと思って教えてくれたんだと思う。そういうのははるなのほうが詳しいんだろうけど」
焚火を守る相火の横にしゃがみ込む。荷物からコメの入ったペットボトルを取り出す。採取していた松葉と一緒に放り込む。調味料を加える。石をまな板にして川魚を切り、串に通す。獲物に恵まれれば蛇などの肉にありつけたり、昆虫食だったりもする。
「この話はしたっけ。山の中で山賊に出会った」
「聞いた。山賊って言ってもただの暴漢でしょう」
「うん。避難小屋にたむろしてた。お爺さんの話はそこでも役立ったよ。捕まった時はとにかく信頼関係を築け。当たり障りのない話題を出せ。相手を名前で呼べ。理屈を使うな。弱った所を見せるな。危険な話題はそらせ。注意がちょっとそれたくらいで逃げるのは危ない。敵が混乱していたり、極端に注意が散漫だったり。細心の注意と努力を擁する危険な状況だったり。そういうときが逃げるチャンスだ。ってね。おかげで隙を見て逃げ出せた」
「それ、テロリズムに対する自助ガイドの最新版と、海兵隊のマニュアルにも載ってる。米軍の奴」
「そうなんだ」
「何者なの。そのお爺さん、元自衛官?」
「分かんないなあ。戦争が終わった後、お礼を言おうと思ったんだけど。連絡はとれなかった。亡くなったのか、引っ越したのか。戦後の混乱で役場にも記録がなくてね。元々過疎が進んだ集落で、お爺さんしか住んでなかったし」
「なるほどね…」
やかんが湯気を噴き始めた。皆が自分の器を用意する。飯盒は粥を作るのでもうしばらくかかった。できた松葉茶を皆で飲む。
「それで、刀祢くんは相火くんに色々仕込んでるんだ。いざとなった時、生き延びられるように」
「それはあるかなあ。それと、せっかく教えてもらったことを絶えさせるのもどうかと思ってね。教え込んだことの半分以上はお爺さんからじゃなくて、後から学んだことだけども」
その発言に、相火が口を開く。
「それでこんなのを毎年やってるのか……友達が、こんなハードなのをやってるのはうちくらいだって言ってたよ」
「ハードかな。加減はしてるんだが」
「これで?」
「安全には気を配ってるし、天気が危険ならすぐ引き返してるぞ。お前が怪我をしたり死んでも困るし、父さんだってみんなを養っていかなきゃいけないからな」
「そっかあ…」
焚火を管理しつつ相火は苦笑。ここ数年は火おこしは彼の担当である。ナイフ一本で木を削りだし、点火するのだった。状況次第ではマッチの出番もあったが。
やがて粥ができると、お茶を飲み切った器にそれぞれよそおわれた。夕日が沈みつつある中、皆がそれを食べ、焼けた川魚を頬張った。一通り食べ終わると、器にまた茶が注がれる。器をそうやって清潔に保つのだった。
「ま、教わったことで役には立たなくなったものもある。例えばあれだな」
刀祢が見上げたのは、ぽつぽつと星の出始めた夜空を横切る一本の構造物。
オービタルリングだった。
「今じゃあどこにいても方向が分からなくなる心配はない。あれは人間を堕落させるランドマークだよ」
その言葉に、残るふたりは苦笑した。
「刀祢くん、新しいものは嫌?」
「嫌じゃあないさ。そんなことを言ってたら今の世の中生きてはいけないしね。それにオービタルリングがあるから、必ず帰れると自信が持てるんだよ」
「そうだね」
「そう。必ず帰れるんだ……」
かつて少年だった父親は、天にかかる輪をじっと見つめた。
少女のまま時の止まった獣相の娘は、そっとそれに寄り添った。
―――西暦二〇四八年。刀祢が神戸から静岡までを横断してから三十二年、オービタルリングが完成してから十九年目の出来事。
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