はじめての宇宙

「宇宙へようこそ!」


【オービタルリング 民間用滞在施設内】


車両トラムの扉が開くと、待ち構えていたのはシカに似た生き物。直立二足歩行で、簡易与圧服を身に着け、頭部から二本の角を生やした相手の名を、ハンナ・クルツは知っていた。恐らく世界で最も有名な知性強化動物のひとり。火星帰りの、リスカム。

「私が一番乗りかな」

「ええ。助けはいる?」

「じゃあせっかくだし」

リスカムの手を取ると、ハンナは一歩を踏み出した。粘性靴が床に張り付く。三半規管が踊り出す。一歩ごとの反作用で体が飛んで行きそうになる。機械仕掛けの内臓が裏返りそうな感覚。

低重力の中を、全身義体者は踏み出した。

それに合わせて待ち構えていた取材陣がフラッシュをたく。こういうところは昔から変わらない。父テオドールが言うには、ハンナがパラリンピックに出るようになる以前。遺伝子戦争よりも前の時代からそうだったという。

機械仕掛けの空間だった。

そこは、オービタルリングの駅。定義上は既に宇宙である。その、低重力区画に彼女はいるのだった。

オービタルリングは巨大な円形のパイプの中で磁性流体を流し、その張力で安定するため比較的低い軌道に設置することができる。張力で重力に対抗しているのだった。なのでオービタルリング上では物は下に落ちる。低重力ではあるが。

リスカムに先導され、取材陣に笑顔で手を振りながら先へと進む。

幾つもの扉を抜けた先で、ハンナは目を輝かせた。

そこにあったのは、競技場。指輪を思わせる形状の施設がオービタルリングに繋がり、ゆっくりと回転している巨大な構造が、窓から見えた。

目的地だった。

「凄い。本当に宇宙に競技場がある」

「用意するのは大変だったみたい。結構ね」

オービタルリングが民間にも開放されるようになってしばらく経つ。その規模は徐々に拡大してきたが、しかし大規模なイベント。オリンピックとパラリンピックに用いられるようになるのは、今回が初めてだろう。だからこそ最初に訪れた選手の出迎えを知性強化動物が務めたのだ。

「走れそう?」

「もちろん。わくわくしてる」

リスカムの問いに、ハンナは頷いた。全身義体者となってから世界中で走ってきたが、宇宙は初めての経験である。だが、そこが人類の領域である限りはやるべきことをやるだけだった。

「よかった。私の仲間もエキシビジョンで参加するから」

「あなたたちの?」

知性強化動物はパラリンピックには出られない。もちろんオリンピックにも。ベース生物や機種ごとに能力が違ってくる。公平な判定は不可能であるから、競技に参加するならエキシビジョンと言うことになった。

「さて。ここが終着点。頑張ってね」

やがて、たどり着いた場所。リングに付属する競技場へと足を踏み入れた段階で、リスカムは励ましの言葉を口にした。

「ええ。ありがとう」

全身義体者のアスリートは、それに頷いた。




―――西暦二〇四八年。史上初めて宇宙でオリンピック・パラリンピックが実施された年、第一次門攻防戦の四年前の出来事。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る