ブラックホールと熱力学
「相火さんは、進路をもう決めたのでしょうか?」
【日本国埼玉県 都築家近くの図書館】
「そうだなあ。大学で勉強をしたいのは決めてるんだけどなあ。何をやるかはまだ悩んでるんだ」
参考書をひっくり返しながら、相火は九曜に答えた。
春休みの図書館でのことである。
周囲を見回せば子供や親子連れ。学生らしい若者たち。年配者。色々な人が様々な本を読んでいる。
こういう施設は戦前とあまり変わっていないらしい。図書館の内部に建て替え前の写真がパネルで展示されているが、構造がそれほど変わっていないので確かだろう。
もっとも、図書館にかけられるコストは過去と比較して跳ね上がっているらしい。郷土資料。文学作品。科学。歴史。言語。あらゆる分野の資料を守らねばならないという機運が遺伝子戦争で著しく高まった結果だそうな。人類文明の保管庫としての需要が高まったのである。人材と建物に資金が投じられ、有事であっても全滅しないように各地には立派な図書館が設けられた。このような文明の保管施設としては他にも各種の種子銀行や博物館など枚挙にいとまがない。人類は過去の遺産を守ることに熱心になった。
もっとも、相火の目的はそんな大層なものではなかった。単純に春休みの宿題を片付けるためである。
机で広げられていたのは過去の歴史。戦争に関する資料だった。
横に立てられたタブレットのカメラの方を向き、相火は口を開く。
「宿題でこういうのが出るのってなんでなんだろ」
「そうですね。現代の政策がどういう根拠に基づいて行われているか。そう言ったことを学習する目的があるのではないでしょうか。例えば遺伝子戦争中、天津市が破壊されて以降日本の輸入は加速度的に悪化しています。特に石油資源については劣悪な環境に置かれていると言えるでしょう」
「今の化石燃料備蓄の根拠だもんなあ」
テクノロジーの進歩によって人類の消費する石油資源は激減した。どころか豊富なエネルギー事情を生かして過去に消費してきたそれらの資源を合成、埋め戻そうという計画すら進んでいる。石炭や石油は今でも十分な埋蔵量があると言われているが、文明が滅亡すれば、次に復興した時掘り出す手段はない。簡単な技術で取りやすい所からは一通り掘り尽くしてしまったからだった。掘り出しやすい所に埋め戻しておけば万が一の時の備蓄資源となるわけだ。過去に放出された膨大な二酸化炭素の回収と固定にも役立つ。
「まあマイクロブラックホールまでエネルギーにしようって時代だもんなあ」
「まだ動力源としては難しいようですが」
資料には天津市を破壊したものが何なのか記載されている。戦闘で用いられたマイクロブラックホールのエネルギーが、都市ひとつを消滅させたのだ。現在では旧天津市跡は巨大な湾となり、その奥で再建された新北京市が海に面しているとも。
「不思議だよね。入ったら出られないブラックホールからエネルギーが出てくるっていうのも」
「相対性理論の観点だけから見ればその通りです。ですが、熱の理論と量子論を取り込むことでその現象については説明がつくようになりました」
「そうなの?」
「ええ。質量によって生じる空間のゆがみ。重力ですね。これから脱出できるかは、物体の速度に依存します。脱出するための速度が光速を越えればもう、脱出は不可能です。光より早い物質はこの世にありませんから。これがブラックホールです」
「うん」
「ブラックホールからは何物も逃げ出せません。一方通行です。もちろん情報も出てくることはできない。熱も出てきません。戻ってこないのだからこの宇宙から消えると考えるのが妥当です。ところがそうすると困ったことになります。その分だけ宇宙が冷める。温度差が生じ、使えるエネルギーが増えるのです。熱力学第二法則に反します」
「それはありえないから、ブラックホールからは脱出できる?」
タブレットの画面の中で、少女を模したアイコンは頷いた。
「はい。脱出の方法は複雑ですが。宇宙は不確定です。なので無はありえません。真空中ではその穴埋めのために、常に正の質量を持った粒子と負の質量を持った粒子が現れては対消滅しています。全体としてみればこれは0ですが、ブラックホールの近くでは時折負の粒子が吸い込まれることがあります」
「正の粒子が残る?」
「正解です。結果として粒子がブラックホールから飛び出してくるように見える事でしょう。そして負の粒子を吸い込んだブラックホールはその分軽くなります。いわゆるブラックホールの蒸発です」
「それでブラックホールは爆発するのか……」
「はい。小さいほど急激に爆発します。十分に大きければ極めてゆっくりになりますが」
「なるほどなあ……」
少年は、そんなものの威力に晒されたという都市に思いを馳せた。地球上に暮らしている以上、それは他人事ではないのだ。
「うーん。決めた」
「何がですか」
「進路。やっぱり情報熱力学の勉強をするよ」
「やはりブラックホールですか?」
「そうだね。一つの現象なのに幾つもの理屈が絡み合ってるのが面白いと思ったんだ」
「相火さんがそう望まれるなら、それでいいのではないでしょうか」
「ありがとう、九曜」
「どういたしまして」
人間の価値観を最大化することを目的とする知能機械は、相変わらずの茫洋とした様子で答えた。
―――西暦二〇四八年。地球上で初めてマイクロブラックホール兵器が用いられてから三十二年、都築相火が神格研究の道に踏み入る五年前の出来事。
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