ふたつの予言
「あなたたちは私たちの一部となり、やがては同化するでしょう。そうね。ほんの二千年もあれば」
【西暦二〇一六年四月八日 樹海の惑星海洋上メガフロート 神戸門展開設備内】
「お上手ね」
「いえ……」
ベッドに横たわる相手との間に置かれているのはチェス盤。ごくありふれた、木製の盤と駒である。簡単に手に入れられるであろう。ここが地球であるならば。
そうではなかった。希美がいる場所は、地球ではなかったから。
周囲を見回す。
白い、不可思議な合成素材からなる床。広大な面積を構成する直線状の構造。天には青空が広がり、一定間隔で植えられているのは街路樹であろうか。傍らから伸びている四角い建物は片面が
間違いではない。そこは、
神だった。
空を行き交うのはビルディングほどもあろうかと言う巨大な神像群。赤。蒼。銀。日本神話を模しているそれらが、実際には超テクノロジーによって建造された拡張身体である。と言う事実を希美は知っていた。
そして、背後に広がる途方もなく巨大な、空間の裂け目。
碧の光を放つそれは、直径が何キロメートルもある。その向こうに広がる光景は、既に原型を留めぬまでに破壊され、驚くべき巨大な人工物に覆い尽くされた港町の姿。
「故郷の姿に心が痛む?」
「はい」
希美は、相手に向き直った。陽光の下。移動式のベッドに横たわる、もうすぐ齢千年を迎えるという異形の女神を。
鳥相に威厳を備えた彼女の名をミン=ア。"尊き血を継ぐもの"を意味する名だと聞いていた。この大神がすべての元凶。神戸を破壊し、世界中を混乱に陥れるという決定を下したのだ。
「そうね。気持ちはわかる。混乱の中で故郷が失われたことは、私も経験があるもの」
「気持ちがわかっても、それを相手に強いる事には良心の呵責はないようですね」
「辛辣ね」
「貴女は、正直な回答を好まれるようですから」
「ええ。そうね。元気な娘は大好きよ。あなたを選んだわたしの目に狂いはなかった」
「私も、殺すんですか?志織ちゃんにしたみたいに」
両者は、傍らに控える人物へと視線を向けた。
体にぴったりとフィットした暗色系のボディスーツ。各所を覆うプロテクター。その上から羽織る上着と、腰に巻いた布がどこかサイエンスフィクション的なイメージを緩和したデザインの服装の、女性である。
希美の友人だった彼女。しかし今はそうではない。友ではなく、そして人ですらないのだ。
「彼女は死んでなんかいない。拡張身体を制御するためのインターフェイスを組み込まれ、肉体を強化され、そして脳の機能を拡張されているだけ。より大局的な視点を得られるようにね」
「大局的。あなた方の言い分ですよね」
駒を手に取る。動かす。相手の駒を取りながら、希美は尋ねる。
大神は、次の一手を思案しながら答えた。
「そうでもないわ。これはあなたたちにとっても利益になること。長期的に見ればね」
「そうでしょうか」
盤面を挟みながらやり取りは続く。
「あなた達の世界の生物で例えましょう。例えば馬。あの美しく、気高い生物は人類がいなければ今ごろ、絶滅していたと言われている。生存競争に敗れてね。けれどそうはならなかった。人類が飼いならし、利用したから。今では馬はとても成功しているわ。他の家畜にしてもそう。農作物だって。ヒトと言う庇護者に奉仕することで、より繁栄することを彼らは選んだの」
「人類も、貴女たちの下で繁栄すると?」
「ええ。だってそうでしょう。本来この地球と言う惑星のみに生息する種だったヒトは、二つの惑星にまたがって存在することになる。その遺伝子は史上類を見ないほどに拡散することになるでしょう。種としてみればこれは大成功よ」
「でも、私たち人類にも尊厳と言うものがあります。貴女方の家畜となれば、個々の意思や生命は捻じ曲げられる」
「あら。なら、あなた達は家畜化してきた生物群に対して個々の尊厳を認めたのかしら。狭いケージに閉じ込められ、肉を提供して一生を終えるブロイラーにそれがあると?あるいはヒトに飼われ、老いるまで乳を提供する牛は?毛を刈られるために品種改良されてきた羊はどうなのかしら。慰霊碑を建て、感謝の念を捧げれば許される?食事のたびに手を合わせてありがたがれば、屠られた生き物が死後の世界で喜ぶのかしら」
「知性のある生物とそうでない生物を同列に語るのはフェアではないでしょう」
「あら。知性はあるなしで語るべきじゃあないわね。すべての生物は知性があるの。その形が違うだけで。
生命とは、それ自体が知的なのだから」
ミン=アが指した手は、盤面上の勢力を徐々に塗り替えていく。希美を追い詰めていく。
「あなたの心配する状況は過渡的なものよ。いずれ終わりが訪れる。私たちが必要としている肉体はほんの数百億に過ぎないわ。それが済んだからと言ってヒトを滅ぼしたりはしない。むしろ、私たちの中へと積極的に取り込むようになっていくでしょう」
「……本気でそのようなことを言っているんですか」
「ええ。本気。
私たちと人類の歴史はとても似ている。巨大な集団が小さな集団を呑み込むことは歴史上、日常茶飯事だった。いわゆる帝国ね。文明は統一の方向へと進むの。今地球を席巻している思想は統一性を持っている。どこに行っても国際法は通用するし、原子核物理の専門家に訊ねれば原子に関して完全に一致した見解を誰からでも聞くことができる。国家はもはや完全な独立性を失っている。地球温暖化や資源の枯渇と言った問題に対する危機感を人類全体が共有しつつある。人種間の壁も急速になくなりつつある。かつて世界各地でバラバラだった人類が、グローバルな"帝国"に呑み込まれつつある。
もちろん、帝国に飲み込まれることは多大な苦痛を伴った。ローマ帝国が多大な文化的偉業を成し遂げるためには、被征服民からの搾取が不可欠だったでしょう。イスラムのカリフはコーランか剣かを突きつけた。スペインやポルトガルは新大陸の文化のことごとくを踏みにじった。この百年ほどでも、ソヴィエトが自国民に対して行った粛清は目を覆うほどだったし、中国が今も行っている少数民族への弾圧は驚くべき流血を伴っている。アメリカでは今でも人種間の差別著しく、奴隷制の代用ともいえる監獄ビジネスによる搾取が横行している。
それでも、帝国の遺産をはねのけることはより野蛮で残酷な世界に逆行することになる。世界はよりよい方向に向かうようにできている」
「それと同じだと?」
「ええ。あなたたちの苦難は恐らく、千年から二千年は続くでしょう。わたしたちの世界においてはね。けれどそれはこの惑星に分布するヒト全体から見ればごく一部でしかないし、それだけの期間が過ぎれば私たちはあなたたちを自らの一員として受け入れるようになっていくでしょう。例えば
「私にとって、千年は永遠と同義です。その結果がどうなろうと絵空事でしかない」
物怖じせずに希美は答え、そして首を振った。この怪物の言葉は理路整然として分かりやすいが、しかし納得しがたい内容ばかりだ。気が狂いそうだった。自分が置かれている今の状況は一体なんだ。ミン=アによって自分たちは選ばれ、友人は破壊兵器に改造されてしまった。もう一人の友人は自分と引き離され、肉体の不死化処置を受けているという。眼前の女神。老いたミン=アが代用の肉体として用いるために。
「いいえ。あなたは千年後の世界を生きて目にすることになるでしょう。そのためにあなたたちを選んだの。私に眷属として仕えてもらうためにね」
「お断りします。……と言っても聞いては貰えないのでしょうね」
「受け入れがたいのは分かるわ。けれど、眷属となればその意見も変わる」
「ミン=ア。人の心を自由にできると思いあがっているのね。あなたはその思い込みによって足をすくわれるでしょう。一年後か。百年後か。千年後かは分からないけれど」
「あらあら。それは予言かしら」
「いいえ。今はただの、私の願望。けれどあなた達だって結局のところ、私たちとは変わらない。人類は今まで数限りない失敗をしてきた。だから分かる。貴女たち神々もいずれ、取り返しのつかない大失敗をやらかすでしょう。今ここにこうしていること自体が、その証左では?」
駒を動かす。勝てない。希美のチェスの腕は凡庸だ。かじったよりはややまし、といった程度でしかない。
それでも、できることはある。
「これは……
参ったわ。最初からこれを狙っていたのね。この歳になって、あなたのような若い娘にやり込められるだなんて。こんな痛快な事、何十年ぶりかしら」
チェスの盤面を見下ろしたミン=アは笑みを浮かべた。希美も最近ようやく読み取れるようになった、神々の表情。そこから推察すれば。
「ありがとう。楽しかったわ。ごめんなさいね。こんなおばあちゃんの長話に付き合ってくれて」
「いえ……」
「さ。"天照"。彼女をお部屋に」
「はっ」
傍らの志織。いや、"天照"に促され、希美は立ち上がった。そのまま連れられていく様子を、大神はいつまでも見送っていた。
◇
「志織ちゃん」
「―――私は"天照"。志織じゃあないわ」
「さっきの話、聞いてたでしょ。今の名前がそうでも、志織ちゃんでもある。ミン=アはそう言っていた」
「……あなたにはかなわないわね。なあに、希美」
「あなたはどう思ってるの。人間を何百億人も消費するって。家畜のように資源にするって。それだけの人が殺されるって」
「必要なことよ。それが神々に貢献し、そして将来には人類の利益にもなる。人間同士でだって今までたくさん殺し合ってきたし、搾取も続いてきた。その延長線上でしかないわ」
「じゃあ
「言ったでしょう。個々の人間の犠牲は必要なことよ。それが友達であっても同じこと」
「志織ちゃんはそんなこと言わない。やっぱりあなたは死んじゃった志織ちゃんの抜け殻だよ」
「辛いのね。心配しなくていい。もうすぐあなたも私と同じになれるから。そうすれば、些末なことで思い煩わされずに済むわ」
「些末なんかじゃないよ……」
通路を進んだ先。希美に割り当てられた部屋へと辿り着いた二人は、中へと入った。
そう。ふたりのための部屋。希美は自由にここを出ることはできないけれども。
今はまだ。
この施設には人間は他にいない。鳥相を備えた神々や、神格に脳を乗っ取られた眷属たちばかりだ。
ここにいない光を除けば唯一の人間である希美は、ベッドに突っ伏した。
あとどれだけ人間でいられるかは分からない。けれど最後の瞬間まで、誇りを忘れないようにしよう。
希美はそう、誓った。
「希美。コーヒー淹れるけど、いる?」
「……ちょうだい、志織ちゃん」
むくり。と希美は起き上がった。
【西暦二〇四七年 兵庫県神戸市須磨区板宿】
「……」
希美は、顔を上げた。
いつの間にか眠り込んでいたようだ。書斎机によだれが垂れている。この歳になってみっともないと思わないではない。
仕事部屋だった。自宅の一室を使った書斎である。本棚にあるのは自らが執筆したノンフィクション。資料。様々な文学作品。アルバム。
希美は思う。自分がノンフィクション作家として成功したのは志織と友人だったからと言う以上の理由はない。彼女と共に多くの時間を過ごした。神々の世界から生還できた。貴重な体験を手記にした。それで得た知名度がその後の助けになった。
ジャーナリズムを学び、戦後も各地で様々な人々から話を聞き取った。それを書き綴った。世にそれを知らしめねばならないという使命感に駆り立てられた。
遺伝子戦争ではたしかに人類は多くのものを神々から得た。失ったもの以上に。だからと言って、神々の所業を許すことはできない。自らにできるのは、それを糾弾することだけだが。
あの時の会話を思い出す。
ミン=アの予言は外れ、自らの予言は現実のものとなった。希美が千年後の世界を見ることはないが、大神は遥かな高みより墜ちた。あれからほんの二週間後、昔の心を取り戻した友人の手によって。
自分は
希美にできるのは、それくらいだったから。
時計を見る。もう夜半だった。パソコンの電源を切り、立ち上がる。部屋を出る。電灯を消す。
書斎を出る際、一度だけ振り返り、そして希美は扉を閉めた。
―――西暦二〇四七年。神戸の門が破壊されてから三十一年目、焔光院志織と高崎希美が共に五十歳を迎える年の出来事。
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