逃避行

「どれだけ人間が強化されようとも恐れる必要はないんだ。例え大地を割り、都市を破壊し、永遠に生きようとも。だって、価値あることは一人ではできないんだから」


【二〇一八年三月 神々の世界 33番門から東三百六十キロ地点 山間部の遺跡】


風に乗って、甘い香りが漂っていた。

見事な桜色の花を咲かせているのは不可思議な樹木の連なり。人の背丈の数倍にも及ぶ木々は枝いっぱいに、その生殖器官を広げていた。

幻想的な光景であった。

切り立った周囲の山脈は岩肌を晒し、いただきを飾っているのは氷河の輝き。上流よりやってくる激しい水の流れは雪解け水であろうか。その脇に広がるのはところどころ野平積みの崩れた石垣であり、それによって支えられた段々畑である。

桃源郷に例えても差し支えない、美しい風景であった。

されどこの美しき木々は子孫を残すことはない。生殖能力のことごとくを喪失していたからである。蜜に誘われる昆虫も存在せぬ。きらきらと陽光を乱反射させる木々の葉は、より自らの内全体へと光を取り込むべく異質な進化を遂げた結果である。それは、地球起源のいかなる種とも異なる生き物なのだと主張していた。

神々の世界。その、放棄された居住地の一角であった。

「凄いね。何百年も放置されてたのに、ほとんど崩れてない」

燈火は顔を上げた。そこはかつて段々畑だった地形の端。山の岩肌との境界に縦足られた複数の住居のひとつである。かつて神々が住んでいたのであろうそこは、住民が立ち去る際に丁寧に封印していったのであろう。驚くべきことに天井に設けられた出入り口はいまだ腐食しきってはいなかった。表面を炭化させて耐久性を高めた木戸。壁面から伸びる階段の石材。

石を積み上げ、砂とセメントの混合物モルタルで硬められた強固な構造は優に数千年を超える歳月を生き延びてきたはずだった。

「ええ。ここは災厄以前には既に歴史的な建造物だった。何百世代と言う神々が、かつて暮らしてたの」

「それも捨てられちゃうのか」

「仕方ないわ。超新星爆発は、それほどの災害だったんだもの」

燈火に答えたのは寝台で横になっている黒髪の女性。寝台と言ってもベッドがあるわけではない。室内の四隅が一段高くなっており、そこに横たわっているのだった。

疲労困憊した様子の彼女は、ヘルカスミ。この、神格と人間。二つの心を一つの肉体に併せ持った女神は毛布にくるまっていた。

「待ってて。すぐできるから」

燈火は、調理の準備を始めた。ここは理想的な隠れ家だ。水源があり、寒さや風雨から身を守れる頑強な家屋があり、衛生を保つためのトイレが残っており、燃料となる薪に事欠かず、忘れ去られて久しい。更に。

部屋の中央に設けられた炉に火を灯す。独特の構造を備えたこれは熱を蓄えると上昇気流を作り出す。外気を吸引して燃焼効率を高めるのだった。煙が非常に少ない。発見される危険を減らすことができる。携帯コンロのバッテリーを節約できるという意味で非常にありがたかった。

火が安定してきたところで水を入れた鍋を置く。乾燥した携帯食料と、そして皮をむいた木の実を放り込んでいく。表の木々の下で集めた、食う動物すら絶滅し、そして植えたとしても発芽することのない、種としての天命が尽きた木の実を。

「間に合うかな」

「分からない。神々が撤退に入ってからもうしばらく経っているわ。可能な限りの人員を回収するまで門を閉じはしないとは思うけれど。来週には閉じていてもおかしくないの。本当なら、こんなところで寝てなんていられない」

「駄目だよ。まだ完治してないんだから」

「……うん」

ふたり二人と一柱は、逃避行の最中だった。神々の施設を脱走し、門を目指してここまで巨神でやってきたのである。神々の放った十数柱もの討手を退けながら。カスミヘルの戦闘力は恐るべきものだったが、それでも無傷とはいかない。そして彼女は、受ける損傷を自分自身の肉体へと偏らせていた。守るべき少年。燈火に傷を負わせないために。

「たどり着いたとしても、突破できるかな」

「人類を信じましょう。ここまで神々を追い詰めた地球の人々なら、神々に隙を作ってくれる。人類の攻勢のどさくさに紛れて門を突破するの。そうして、私たちは地球に帰る。

もし、私たちの考えるほどの混乱がなかったとしても、あなただけは無事に連れ帰る。私の生命に替えても」

「駄目だよ、ヘル。君も一緒じゃなきゃ意味がない」

「いいの。私は殺戮機械だもの。カスミもそう望んでいる。あなたのためならなんだってできる」

「君は機械じゃない。君は人間だ。まぎれもなく、優しい心と、高潔な魂を持つ、誰よりも勇敢で素晴らしい女性だ。ヘル。君は確かにカスミの脳を乗っ取って生まれたのかもしれないが、そんなことは問題じゃあない。作り物だろうが肉体を強化されていようが、そんなことは人間であるという事実の前には関係ないんだ」

燈火の反論に、ヘルカスミは俯いた。この不可思議な眷属はふたつの心を持つが、より正確にいえば一つの無意識の上に二つの意識が乗っかっているという状態だ。最終的な肉体の主導権を握る自我が二つあるとは言っても、基本的にその思考の過程の大半をは共有している。故に、眷属ヘルとしての言葉は人間であるカスミとしての言葉でもある。

「ヘル?」

「―――そんなあなただから、は恋をした。十歳も年下の男の子に」

黒髪の女神は、少年を抱きしめた。更には、そのまま自らの寝床まで引き込む。

「これじゃ鍋が焦げちゃうよ」

「大丈夫」

燈火の問題提起に応えるように鍋が宙を浮き、そして炉の傍らに着地した。分子運動制御であった。

それを目にした少年は、だから違う逃げ道を口にする。

「―――僕はまだ子供だよ?」

「ここは人界じゃあないわ」

抱きしめられた。

さほど強い抱擁ではない。燈火の強化された身体能力ならば振りほどくことも出来ただろう。

けれど、少年はそうはしなかった。

「―――いいんだね」

「―――いいよ」

女神と少年の肉体は重なり合う。

そんな中で、薪の爆ぜる音だけがいつまでも響いていた。




【二〇四七年三月 日本国 兵庫県神戸市三宮 新東遊園地 戦災慰霊祭会場】


快晴だった。

視線を下ろした刀祢は、周囲を見回す。そこは都会の中心部に設けられた比較的大きなスペースの公園。

今日は終戦記念日に合わせた慰霊祭だった。とはいえ人はさほど多くはない。何年も前にその規模は縮小されたし、何より最後に門が閉じてからもう二十九年も経つ。段々と忘れ去られていても仕方のないことなのだろう。刀祢自身参加したのは久しぶりだ。下の娘ももう十歳。刀祢が家を空け、一人でこちらに出てきても問題ない年頃だった。とはいえ日帰りである。用事を済ませればすぐに自宅まで戻る。

刀祢自身、戦争の記憶はずいぶんと薄れつつある。神戸が壊滅した日のことだけは、今でも克明に覚えているとはいえ。生きてきた歳月は父の享年をもうすぐ超える。この日が来るのを見越して体験を手記として残したのは賢明だったのだろう。その内容はネットで評判を呼び、ついには紙の本として出版されるに至った。個人的にはあんな拙い内容のものがそこそこヒットしている事実に恐縮してしまうが。

海側に視線を向ける。かつて沖に門が開きそして、出現した神格によって神戸は破壊された。多くの人々が連れ去れた。母や燈火も。その悲しみが消えることはないと思っていたが、年々薄れていくのを感じる。歳月は痛みの記憶をゆっくりと癒す。人の心を守ろうとするかのように。

かつて少年だった父親は、遠い過去に思いを馳せた。

連れ去られた人々と残された人々。どちらがより不運だったのだろう。遺伝子戦争で地球は地獄になった。中国大陸の三割が消滅したし、アフリカも穴だらけとなった。ドイツは放射性物質汚染に見舞われ、地中海は血に染まった。北米、ネバダの地は流砂に覆いつくされたし、世界各地を天変地異が襲った。日本列島もいまだ癒えない傷を幾つも負っている。地球人類の七割はそうして失われたのだ。

神々が憎いか。と問われれば、刀祢ははいと答えるだろう。だが、神々に復讐したいかと問われれば否と答えるはずだ。それは、大切なものを危険にさらすのと引き換えだったから。

父が人類のために残した力。それは、復讐心のために駆り出されるべきではない。

大切なものを失うのは、もうごめんだった。

刀祢は、慰霊祭が終わるとすぐ帰路に就いた。家で待つ家族のために。




―――西暦二〇四七年三月。都築燈火が冥府の女王を失ってから二十九年、門が再び開く五年前の出来事。

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