5エーカーで十分

「科学がなかったら、僕たちは今頃どうしていたんだろうなあ」


【イギリス イングランドコッツウォルズ地方 捕虜収容所】


コトコトと、鍋の中身が煮られていた。

高熱に晒されているのは白いんげん豆。厚切りベーコン。玉ねぎ。乾燥した月桂樹の葉ローリエ。トマト。調味料を少々。いずれもイギリスではごく当たり前に手に入る食材である。完成するととろけたトマトを帯びた柔らかい煮豆が出来上がる。

台所に立っているのはいつもの女主人ではない。その息子。グ=ラスだった。

火加減を調整。並行して作っている料理を確認。スープの加熱を止める。

出来上がった食事を皿にとりわけ、盆にのせて運ぶ。

「母さん。できたよ」

少年の発した言葉は、閉ざされた扉の向こう。ベッドで横になっているムウ=ナまで届いただろう。

帰ってきた答えはゲホゲホ、と言う咳。感染症である。何でもインフルエンザ神=ヒト変異種だとかなんとか。

西暦二〇四七年現在でもインフルエンザは強力な感染症である。医療技術の進歩で致死性こそ減ったものの、基本的には二十一世紀初頭に用いられていた方法が最も社会的に低コストかつ効果的である。今なら免疫機構に頼らず治癒させる方法はたくさんあるとはいえ。

捕虜収容所の住たちも基本的には予防接種を受けているが、ムウ=ナは感染。自宅での隔離と相成ったのだった。感染経路は今のところ不明である。

扉を開けたグ=ラスは、眠る母のそば。台の上にお盆ごと食事を置き、即座に退散した。すぐに石鹸での手洗いとうがいを徹底する。

一通りやるべきことを済ませた少年は、自らもテーブルについた。父や他の捕虜たちはまだ作業から戻ってきていないから、一人で食事を開始する。

「科学が進歩してても、病気はぱーって治せないんだなあ……」

実際には石鹸、手洗い、うがい。消毒と言った作業自体が高度な科学の産物ではあるのだが、グ=ラスにはその認識はない。病原体の構造と弱点を調べることができるからこそ、そのような単純で効果的な手段が有効だと証明できるのだから。

自分の手を見る。高度な遺伝子操作を受けているという父母の血を引く、自らの肉体を。

遺伝子改造が施される以前の祖先の姿を自分は受け継いでいるという。変わっているのはごく一部の遺伝情報だけなのだと。されど、それは子々孫々確実に受け継がれる形質なのだと。もっとも、神々の生殖能力は著しく低下している。グ=ラスが子を持てる望みは薄いだろうが。

豆料理。ベイクドビーンズを食べる。そこに入っていた豆を観察。

「これもそうなんだなあ」

豆は人類が初めて遺伝の法則性を解き明かす際に用いられた。もっとも、いんげん豆ではなくえんどう豆だが。オーストラリア=ハンガリー帝国に生まれたグレゴール・メンデルは科学教育に熱心な修道院で研究に明け暮れた。5エーカー2万平方メートルの畑で何世代もの間、えんどうを交配させたのだ。この作物は幾つもの優れた特性を持っていた。品種が多い。栽培が容易。丈が高いか短いのどちらかで中間がない。紫の花を咲かせるものと白い花を咲かせるものがある。これらの特徴が世代から世代へと受け継がれる様子を観察するにはうってつけだったのだ。

メンデルは、単純な作物が見せる複雑なルールを誰の目にも明らかな形で説明することに成功した。遺伝と言う概念を発見したのだ。

今では誰でも知っているごく簡単な、しかし当時は誰も知らなかった事実。

父に言わせれば、台所は最も身近な実験室なのだそうだ。少年もそれには納得しかない。野菜。肉。酢。酒。チーズ。調味料。茶葉。調理器具。様々な実験材料や実験器具が並んでいる。これだけのものがあれば、科学のごく初歩的で重要な発見をすることも夢ではないだろう。今では再確認と言う意味しかないとはいえ。

「なんで科学なんてあるんだろうなあ」

ふと、そんなことを想う。自分たちの種族が高度な科学力をもっていなければ、自分は地球にいなかっただろう。自分の名前と同じ名を持つ世界で生まれ育つことができただろう。地球人に白い目で見られることもなかったに違いない。

もちろん、そういうわけにはいかないのは分かっている。科学がなければそもそも神々は何百年も前に滅んでいたのだから。

余計な考えを頭から振り払う。食事を平らげる。今日はどこで寝よう。いつも三人同じ部屋で寝ているから悩む。毛布を準備せねば。

考えている間に、家の扉が開いた。

「ただいま」

「お帰り、父さん。晩御飯作っといたよ」

少年は、父を出迎えた。




―――西暦二〇四七年。グ=ラスが十二歳となる年、門が再び開く五年前の出来事。

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