予測不能に複雑

「宇宙は計算でできている。コンピュータを考えてみればいい。ごく単純な演算の積み重ねが、予測不能な複雑性を備えた答えを導き出す」


【イタリア共和国カンパニア州ナポリ ナポリ海軍基地 講義室】


「この宇宙が生まれる前、何も起きてはいなかった。時間も空間もなかった。空間そのものが存在しなかったんだ。だから、その状態を記述する情報はたった一つで事足りる。"ゼロ"だ。宇宙はかつて無だったんだよ」

アルベルト・デファント博士は講義室を見回した。並んでいるのは十二名の娘たち。獣相を備え、軍服を着たフォレッティたちが座っているのだ。先日神格を埋め込んだばかりの彼女らはリオコルノよりもやや小柄であるが、しかしその潜在的なパワーは遥かに大きい。扱うことになる機械の基本原理に関する理解をより深めておく必要があった。

「宇宙は唐突に始まった。ビッグバンだ。時間が始まり、空間が生まれた。出来立ての宇宙はとても単純だった。フライパンに落とした卵の黄身のようにシンプルだったんだ。エネルギーはわずかで、記述する情報も相応に少ない。ほんの数ビットで書き記すことができただろう。だが、宇宙は誕生とともに膨張を開始した。時空を織りなす量子的構造からエネルギーをどんどん取り出していったんだ。その一方で情報の増加量はごくわずかだった。初期の宇宙は単純で秩序だっていたから、わずかな情報で記述できたことだろう。もっともこれは永遠には続かなかった。エネルギーは熱に変換され、宇宙は極めて高温になった。素粒子一つ一つの振動を記述するべき情報は膨れ上がった。やがて宇宙が冷えていくとともに原子核が生まれ、電子が捕獲され、量子的な偏りが拡大することで物質が凝集して星が生まれた。宇宙はどんどん複雑になっていった。同時に、それら一つ一つの運動を記述するべき情報も増えることはあっても減ることはなかった。宇宙は自らをプログラミングしていったんだ」

授業を進めるアルベルトの言葉は滑らかだ。知性強化動物が二歳を迎えるたびに行う恒例行事だから当然ではあるが、今回は初めて自らの育てた娘も参加している。気合の入り方が違った。

「宇宙最初の情報処理装置は、この宇宙そのものだ。すべての素粒子。原子。それ自体が情報を記録し、原子同士の衝突をはじめとする宇宙のあらゆる動的な変化が情報を処理しているんだ。それも体系的に。

単純な演算のできる系は、それを組み合わせることで幾らでも好きなだけ複雑な情報処理システムを作り上げることができる。生命。言語。社会。コンピュータ。知性強化動物。いずれも複雑に見えるが、分解していけば一つ一つは単純だ。

同様に宇宙も単純な物理法則の組み合わせによって複雑な展開を見せる。これ自体が一種のコンピュータであり計算可能なんだ。だから、強力な計算機があれば宇宙を模倣することができる。宇宙を構成する原子や光子の振る舞いは量子的だから、それらの要素を量子コンピュータの量子ビットに対応させてやればいい。このビットは量子的だから難なく量子情報を保存できる。相互作用についても同様だ。量子コンピュータは、同じ規模の宇宙を丸ごと記述できるんだよ。

だがここで疑問が生じる。完全な量子コンピュータは、完全な宇宙と区別がつくのか?

答えはノーだ。量子コンピュータは宇宙であり、そして宇宙は量子コンピュータそのものでもある。

そして人類が手にしているもっとも強力で高性能な量子コンピュータは、流体。皆も備える、巨神を構成する物質だ。

巨神は一つの小さな宇宙なんだよ」

フォレッティたちが目を丸くする。情報熱力学と神格工学を扱っていれば自然と辿り着く発想だが、彼女たちには新鮮だったらしい。この超生命体たちは優れた知性を持つが、結局のところまだ二歳の子供に過ぎないということだろう

「巨神が均一でありながら様々な命令に応えて機能を発揮できるのはまさしくこの性質に起因する。肉体が出した命令を具現化するべく演算を重ねて複雑な解を導き出すからだ。だがそれには効率的な命令が必要になる。より適切で有効な命令を発するために、皆の持っている情報処理能力が必要になるんだ。手を伸ばす。歩く。浮遊する。槍を投げる。これらの作業が無数の細かい情報処理の結果であるように。

もちろん、君たちのこの新しい体を制御するのにいちいちそこまで意識する必要はない。ごく自然に操ることができるだろう。最初は訓練が必要にしても。

けれど覚えてはおいて欲しい。自分たちの拡張身体がどういう理屈で動作しているのか、と言うことを」

これからフォレッティたちの初期訓練が始まる。ドラゴーネやリオコルノ。そしてモニカやペレ達によって、子供たちは徹底的に鍛え上げられるだろう。やがて新しい子供たちが生まれれば、フォレッティたちが教える側に回るだろう。今まで何十年も続いてきたサイクルは、今後も。アルベルトがいなくなった後も続いて行くはずだ。

感慨にとらわれつつもアルベルトは、生徒に対して質問はないか尋ねた。

幾つかの質問への回答を返し、そして講義は無事に終了となった。




―――西暦二〇四六年。フォレッティ級が完成して二週間、門が開通する六年前の出来事。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る