女神たちの黒板アート

「かけた!」


【イタリア共和国カンパニア州 ナポリ海軍基地 講義室】


よく使いこまれた黒板だった。

今まで百を優に超える生徒を送り出してきた教室。そこに設置されているのはこれまた深みの出て来た、漆黒の黒板である。高所及び低所は使用の痕跡が比較的少なく、中央部に寄って使用の痕が多い。

そこに新たに書き加えられていくのは幾つもの幾何学的な図形とそして数式。枝分かれする棒線画に見えるのは時間発展する波のスナップショットだし、正方格子のバーテックスモデルは歩行者の経路を表している。気象予報図にも似た図形は力学系におけるカオスを描いたものだろう。

いずれも高等数学の視覚化と、その数式化だった。

図形を描いているのはペレ。適当に書きなぐっているようにしか見えないが、しかし数学者が見れば何をやろうとしているのか。その意図を読み取ることは容易だろう。

そして、それをしているのは角と尻尾を備えた獣相の女の子。ローザだった。

「何をしているの?」

「お絵かき」

入ってきたモニカに即答したのはローザ。恐ろしく高度な作業をしながらも、その動きにはよどみがない。

「考えがうまく出せないの。でもペレちゃんが絵にしてくれるから、すぐに式に直せるよ」

その意味を理解したモニカは唖然とした。ローザが高等数学を理解していることにではない。それは既にリスカムで通った道だ。それよりも驚くべき事実は、ローザが言語化の難しい高等数学をペレに非言語的手段で伝えられているということであり、そしてペレはそれを幾何学と言う形で出力している。と言うことだ。

ふたりは、常人には理解し難い高次のコミュニケーションを取っているのは明白であった。

「じゃあペレちゃん、こういうのはどうかな」

ふたつの高度知性は協力しながらも一つの作品を仕上げていく。ローザが二つの穴の開いたドーナツを描けばペレは奇妙にねじ曲がり、輪の中をドーナツの一部が通っていく奇妙な図形を描き、ペレが今度は6つ穴のドーナツを描けばローザは奇妙な怪物にしか見えない穴だらけの構造を描く。

それらが同じ形のペアを描いているのだということにモニカは気付いた。含まれている穴の数で分類する、いわゆる位相幾何学トポロジーの産物。

驚くべき能力だった。第三世代の知性強化動物でもあるローザもそうだが、それ以上にペレが備えていた潜在的な力が。

両者がどのようにコミュニケーションを取っているのかも、モニカは気が付いた。

人間の意志疎通は複雑だ。普通に見ていては分からない高次の特徴を無数に備えている。しかし、人間を大きく上回る知性と演算能力を備えたフォレッティならばそれらの特徴を見つけ出し、言語によらない。言い換えれば情報の精度を落とさないコミュニケーションができてもおかしくはない。

何十年も前、ゴールドマンが言っていた話を思い出す。ペレの脳の一部分。本来言語野だったそこは、人間の本能に沿ったものとは異なる知性を発揮する器官なのだと。ペレも、ローザと同等の事ができるのだとすれば―――

「おしまい」

締めの言葉は、ペレから発せられた。

未だにドキッとするが、彼女はもうかなり言葉を理解できる。発するのはまだ単語に限られていたが。

ペレの治療はフォレッティ誕生の直前と言っていい時期だった。ゴールドマン曰く新しく生まれた子供たちが言葉を覚えていく過程に触れ合うことで、ペレの回復にもよい影響があることを期待してとのことだったが。

これほどの効果があるとは。

「ねえ。ひょっとして今まで、わたしやみんなが頭の中で考えてることって全部読み取ってた?」

「うん」

ローザは首肯。

「そっかあ。単純すぎるのかな、私たちは」

「でも好き」

「ありがとう」

妖精フォレッティの素直な言葉に苦笑しつつ、モニカは礼を述べた。ゴールドマンめ、とんでもないものを作ったな。などと考えながら。

「そうだ。そろそろおやつの時間よ」

「おやつも好き」

ローザはチョークを置いた。ペレもそれに続く。

「行きましょ」

三人は部屋を出て行った。後には、板面一杯に書き込まれた黒板が遺された。




―――西暦二〇四六年。ペレの治療が行われてから二年、都築燈火が特異な能力を発揮するようになってから三十年目の出来事。

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