雪中の死闘
「我が
【西暦二〇一六年十二月 ロシア連邦サハ共和国 ヤクーツク北東百三十キロ地点の村落】
静かだった。
時刻は既に夜半。深々と降り積もっている雪に覆い尽くされた世界を照らすのは星明りのみ。音を消し去る白き世界で、鳥相の眷属は途方に暮れていた。
雪以外で目に入るものといえばまずは針葉樹林。シベリアの大地を代表する植物の一種である。
そして大小様々な家屋。納屋。長大な柵の内側には本来家畜がいたのだろう。住民が逃げ去った村の建物はあるものは雪の重みで潰れ、あるものは火災で失われた様子が目の当たりにできる。家屋には食料や清潔な飲料水が、放置された農耕機器や自動車にはエネルギーが残っているかもしれないが期待薄だろう。眷属は地球の機器類の知識が乏しい。人間を素体とした新型とは異なり後天的に、自分で学習していくしかないからだった。結局のところ彼のような旧型の神格は文明再建用の存在に過ぎない。新型のような、知的生命としての尊厳を踏みにじられた末に完成した兵器ではないのだ。それですら戦闘に投入されているのは神々の余裕のなさの表れである。
「……」
手にした銃を抱え直す。木々の合間を慎重に抜ける。装備は雪上迷彩服。サバイバルキット。ナイフ。手にしている自動小銃。腰の拳銃型
辿り着いた建物の陰で一息。敵が人間の兵士だけならこのような警戒は不要だ。上空から巨神で吹き飛ばせば事足りる。だがそうではない。先ほど撃破した敵の神格。人類側神格の死体を確認せねばならぬ。神格の治癒力は強力だ。もし生きていれば必ず復活してくる。来るかどうかも分からぬ味方を待っている暇はない。今とどめを刺さねばならぬのだ。
周囲を確認。足跡を探す。見当たらない。安心できぬ。神格は分子運動制御で浮遊する事ができる。分子運動制御特化型ならば、遠方の物体を動かして気を逸らすと言ったことも。神格及びその管理下にある巨神の流体に対しては、他の神格が直接干渉することはできないにしても。
軒下から慎重に顔を出す。そこで眷属は、不審なものを見つけた。
二〇メートルほど先。民家と民家の向こうを横切っている、足跡を。
小さい。先ほどまで雪が降り続いていた中で消えていないということは、つい今しがたついたものか。だが本当にあれは足跡なのか?分子運動制御でつけられたダミーの可能性は?
わずかな逡巡の後。眷属は決断した。地球のことわざ曰く"虎穴に入らずんば虎子を得ず"、だ。
音もなく進む。
建物を背にする。わずかに顔を上げる。窓の中をのぞき―――
強烈な銃撃。
反射的に分子運動制御を働かせた眷属は、眼前。建物と窓を貫通した銃弾がことごとく静止するのを尻目に撃ち返す。たちまちマガジンを使い切り、弾倉を入れ替えようとしたところで彼は、作業を中断した。
向こうから飛んできたのが、ピンを抜かれた手榴弾だったから。
咄嗟に横っ飛び。転がった眷属から見て明後日の方向に飛んだ手榴弾は窓を突き破ったところで炸裂。無数の破片の一部をやはり分子運動制御で止める。危なかった。銃弾と手榴弾では運動特性が異なる。同時に止めようとすると眷属の能力が飽和する可能性もあった。
転がる。走る。遮蔽を探す。敵手の姿をちらりと視認。女。マントを羽織り、銃で武装した若い女だ。人間離れした跳躍力で建物を飛び越えるのが見えた。人間ではありえない。やはり人類側神格。進路を予想する。先回りする。銃撃。敵手は加速して回避。手にした小銃による反撃。分子運動制御で阻む。弾が尽きたか、敵手は小銃を投げ捨てた。代わりに抜いたのは拳銃。向きを変え、こちらに突進しながら連射してくる。銃弾は十分に視認できる。防げる。そう判断した眷属は、足を止め、準備していたもう一つの武器を抜いた。
レイガン。分子運動制御では防ぎようのないレーザービームは、正確に人類側神格の胸板を貫き、脇腹まで切断。ほとんど両断した。
勢いそのまま、大地に転がる女。
―――勝った。
勝利を確信した眷属。彼が自らの身を守るべく働かせようとした分子運動制御はしかし、空を切った。
「―――!?」
肩部に衝撃。脇腹にも。
この段階でようやく彼は気が付いた。分子運動制御を受け付けない物体の存在を。敵手が放った銃弾の素材は、流体。奴は自らの巨神の一部で弾丸を形成し、火薬で射出したのだ。恐るべき暴挙だった。
「……くっ」
レイガンを取り落とす。構わない。エネルギーは残っていない。最大出力で放ったから。
傷口を見る。大丈夫。この程度なら死ぬことはない。そして敵手よりはずっと浅い。
人類側神格へとどめを刺すべく鳥相の眷属は、虚空より
傷口の痛みをこらえ、接近する。用心深く。
「……」
人類側神格が顔を上げる。血塗られていたが、美しい女だった。神々の美的感覚に照らし合わせてみても。
だから、眷属が相手に言葉を放ったのも無理のない事だったのかもしれない。
「言い残すことはあるか?」
「……返せ。母さんを。弟を。父さんを返せ。私の体を元通りにしろ。それができないなら、くたばれ。化け物め」
「そうか」
小剣を振り上げる。
それが首を切り落とすより先に、人類側神格は動いた。残された部位。まだ動かせる左腕を用いて、こちらの脚に抱き着いてきたのである。
「無駄な足掻きを」
「どうかな」
その時だった。眷属の鋭敏な感覚器官が異変を捉えたのは。なんだ。この匂いはなんだ。この小さな、泡が弾けるような奇怪な音はなんだ。
小剣を振るう。敵の首を切断する。それでも止まらない。なんだこれは。残された体が異様に加熱していく。反射的に分子運動制御を振るう。強力なパワーが働くも、足を掴んだ腕は外れない。
―――こいつは神格ではない!!
気付いた時には手遅れだった。
残された胴体の中で進行していたのは、ある種の化学反応の連鎖。体組織がアンモニア、亜硝酸を経て硝酸へと変換され、多量の糖がセルロースへと変じて行く―――最終的に生じたのは、爆薬だった。
女は、爆発した。神格と言えども助からない威力で。
鳥相の眷属は、跡形もなく吹き飛んだ。
◇
死闘が繰り広げられた村落。その周囲を取り囲むように広がる針葉樹林から現れたのは、幾つもの人影だった。マントを羽織り、小銃で武装した彼女らの動きはまるで機械のように統制が取れている。先の女によく似た装いの彼女らに守られたのは、これも女。
少女たちよりも年嵩に見えるこの美女は二十代半ばといったところか。透き通るような髪を伸ばし、軍用の外套と帽子で寒さから身を守る彼女は、負傷しているように見えた。足を引きずり、腕を包帯で吊っていたのである。
彼女こそが、眷属の本来の標的。人類側神格"グルヴェイグ"だった。
「……オルガは死んだか」
「はい。眷属と刺し違えたようです」
「……火を」
脇の部下―――やはり少女―――差し出されたライターの火で煙草を点火すると、煙をくゆらせる美女。
「……まずい。神格は何でも不味くする。酒も煙草も。薬も。毒物分解機能などクソ喰らえだ」
「お体を大切になさってください」
「はっ。心配しなくても神格が完璧に整えてくれる。私がどんなに無茶をやらかしてもな」
「貴女がよくても私たちが困ります」
グルヴェイグは、部下の顔を見た。自らの権能で黄泉還った死者。その中でも数少ない、生前の記憶と人格を保っている少女の容姿を。
環境管理型神格は微細な操作を得意とする。広範囲に偏在する流体は物理的なパワーこそ皆無なものの、生体を原子レベルで組み換え、あるいは情報を読み取る程度は容易い事だ。酸素不足で破壊された人間の脳細胞ですらそれは例外ではない。複雑な量子的絡み合いと、破壊の過程を記述する古典的な運動方程式。これらから逆算すれば場合によっては記憶ごと、復元は可能だ。エントロピーを踏みにじり、第二種永久機関すら生み出した神々の科学技術にとっては。
いや。第二種永久機関を構成するマックスウェルの悪魔とはそもそもが、可逆性を備えたものなのだ。
美女がやったことは、その力を使った死者の蘇生であった。死体を作り変え、生き返らせて組織的な戦闘に投入しているのである。自らの手足として。場合によっては身代わりとして。今回のように。
もっとも、強化された死者と言えども眷属には勝てない。まともに戦えば根本的なスペックが違いすぎる。だから、敵に撃墜され負傷したこの美女を救うため、死者のひとりが身代わりを務めたのだ。神格であるように見せかけて。
死者の蘇生は難しい作業だ。死後、経過した時間が長ければその分遺体は劣化していく。脳は特に壊れやすい。死後数分ならばいざ知らず、通常は蘇生に取り掛かる段階で生前の記憶まで復元できる可能性はさほど高くなかった。ほとんどの死者は自発的な意思も、記憶ももたないまさしく
それにも増して人類側神格は貴重な存在だったが。そして、死者たちを維持するのに不可欠でもある。無理やり死から引き戻され、その身体能力を著しく強化された死者たちはグルヴェイグによるメンテナンスなしには生きられなかったから。
「私を恨むか?」
「いえ」
死者の少女は、女神の問いかけに頭を振った。
少女は知っていた。この上官が、酒に逃避することも、薬に頼ることもできない体だという事実を。神格としてはお世辞にも強力とは言えない能力を補うために、死者を使わざるを得ない現実を。人類が追い詰められているという現状を。
「……オルガの
紐づけられた
「行こう」
針葉樹林へと引き上げていく死者の軍勢。それを見届けた唯一の生者は、自らもそこを後にした。
【西暦二〇四五年 ロシア連邦サハ共和国トンポ郡南部地域】
「……てください。遅れますよ、エレーナ。起きて」
「…ぅぅ……あと十分…」
リューバはあきれ顔で手を止めた。毛皮にくるまり、絨毯の上で寝転がっている女性とは二十九年の付き合いだ。彼女は昨夜、散々飲んだくれていた。神格の毒物分解機能がオーバーフローするまで。人間なら急性アルコール中毒で死んでいただろう。この姿を見て戦時中、
周囲を見回す。
ノートパソコン。ランタン。薪ストーブ。やかんと鍋。空っぽになった金属製の酒樽が複数。神格用の薬が幾つか。毛皮。バッテリーと、外の太陽電池に繋がっている電線。着替え。等々。
それらが、獣の革と木のフレームで作られた伝統的な円錐形テントの中に転がっているすべてだ。
「そろそろ起きないと飛行機に遅れますよ。いいんですか。ナポリに飛ぶのでは」
その言葉で、相手は。人類側神格"グルヴェイグ"、人間名エレーナ・チューリナは身を起こした。
「…そうだった」
むくり。
立ち上がると、そそくさと身支度を始めるエレーナ。寒冷地に合わせた暖かなコーデ。遺伝子戦争期から変わらぬ二十代半ばの肢体は、リューバの助けを得てたちまちのうちに完全武装する勢いだ。
身支度を終えた人類側神格は、テントの入り口に手をかけた。
「ありがとう。忘れるところだった。お前がいないと私は駄目だな」
「長いことお仕えさせていただいていますから」
リューバは。この、死人部隊最後の生き残りである少女は頷いた。主人同様若々しい肉体は、環境管理型神格による定期的なメンテナンスで保たれている。そばを離れるという選択肢は存在しなかった。戦時中も。戦後も。エレーナが精神を病み、ほとんど再起不能に思えた時期も。ようやく人並みには暮らせるようになった今も。
外はシベリアの地である。遊牧民が散らばって暮らしている、このような僻地に住んでいるのも、エレーナが危険な状況だった時の名残だ。狂った人類側神格が暴れた際の被害を最小限にするために。今でも、定期健診には機材を満載した軍のヘリの方から出向いてくる。神格関連技術の進歩で完治しつつある現在も、ふたりは長年暮らした土地に残ることを選んだ。
「
「ああ。環境管理型神格を扱うときの心構えを話してやって欲しい。だそうだ」
「……」
「不安か?」
「正直、少しだけ」
「それは私についてかな。それとも、わたしの後輩たちについてかな」
「両方です」
「なあにほんの一週間だ。それに、後輩たち。フォレッティだって、わたしのような神格の使い方をする必要はないはずだ」
「そう願います」
エレーナは、新型の知性強化動物の講師として招かれていた。これより出かけねばならぬ。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
準備を終えた主従は入り口を潜り抜け、ナポリに向けて旅立った。
―――西暦二〇四五年。人類が初めて環境管理型神格を完成させる前年、フランソワーズ・ベルッチが環境管理型神格を組み込まれる六年前の出来事。
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