硝子の刃
「君は人間だ。まぎれもなく、優しい心と、高潔な魂を持つ、誰よりも勇敢で素晴らしい女性だ。
誰にも否定なんてさせない。それがたとえ神々であろうとも」
【西暦二〇一六年五月 埼玉県防衛医科大学校】
凄まじい形相の遺体だった。
眉間にはしわが寄り、目は落ちくぼんでいる。ざんばら髪と相まって、無念の死を遂げた武者の怨霊か、とすら思わせる青白い面相であった。
そして、首より下の無惨な姿。
胴体は左側がえぐれ、右腕が肘までしかなく、首は千切れかけ、足はない。清められているが、こうなる過程で排泄物が内臓からまき散らされてもいた。
台の上に安置された男性の遺体を前に、複数の医師と助手らが並んでいる。
解剖であった。とはいっても法医解剖ではない。既に採取した検体は他の研究機関に回し、MRI等の機器で体内についても事前に調べ尽くされている。その仕上げ。侵略者の主力兵器を調査するための解剖が今から始まるのだ。
大阪から冷蔵されて運ばれてきた神々の眷属の遺体を前に、医師たちは手を合わせる。兵器へと作り変えられ無残な死を遂げた故人への、それは敬意であった。
「大丈夫かな。顔色が悪いようだけど」
室外から解剖の様子を見ていた志織は横を向いた。そこに立っていたのはごく普通の風体をした白衣の男性。胸のネームプレートには「都築弘」とある。彼も科学者なのだろうか。
「平気です。ただ……自分もほんの少し運命が違えば、ああなっていたのかもしれない。そう思っただけです」
「君は……そうか。焔光院さんか。テレビで見たよ。私は都築。都築弘。生物学者をしている」
相手に黙礼すると、志織は解剖室の作業に目を戻した。先の大阪での戦闘は自衛隊の勝利に終わった。今解剖されようとしているのはその戦利品のひとつ。もっとも、志織がそれを見ているのは解剖に立ち会うためではない。負傷の治療と診断を受け終わったばかりである。休養を申し付けられ、空いた時間でここに立ち寄ったのだった。もうほとんど治りかけているが。
志織は、身に着けた自衛官の制服の袖の下。半ばからがなくなっている自らの右腕を、見た。
数日前には肩口から千切れていた。傷口は数分で盛り上がり、肉芽となって出血は止まった。食事をとり、眠るたびに負傷は再生し、今はこの長さだ。ありえない再生速度だった。来週までには完治しているだろう。
自分はもう人間ではないのだ。という事実が実感できる。
開始された解剖を見つめながら、都築弘は―――都築博士は口を開いた。
「むごい話だ。脳を奪われ、操り人形にされる。進歩した知的生命体の所業じゃない。分析中のデータを見たが、なぜあれで生きていられたのか分からないほどに作り替えられていた。人類の間でも遠隔操作できるサイボーグ昆虫を作り出そうという研究はあったが、それを人間でやるとは」
「……」
「君が公開したデータも見たよ。ごく一部だがね。今の我々では理解するだけでもあまりに人と時間が足りない。平時ならともかく、この戦時ではあれをコピーするための
「コピーする、ですか」
「ああ。敵の武器を分析し、複製し、自分のものにする。人類が今までやってきたことだ。もちろん人間の体を乗っ取るような機械をそのまま使うわけにはいかない。何らかの改良は必要だろう。だが元々あれは、神々が利用する文明再興用の拡張身体だと聞いている。ごく平和的な利用が本来の目的だった。事実かな」
「ええ」
「なら、人間の脳を乗っ取る機能は副次的なもののはずだ。削除しても問題ない。そのうえで、あれを複製し、志願者に組み込むことは可能なはずだ。軍事用サイボーグ部隊というわけだな。もちろん将来的な話になるが」
「……見てください。私のこの腕を。肩口までなくなっていたのが数日でこの長さです。もうすぐ完全に再生するでしょう。こんな化け物に人間を作り変えると、あなたは言うんですか」
「君は化け物じゃあない。人間だろう。その肉体的機能が大幅に拡張されているだけのことだ。程度の差はあれそんな人間はこの世界に幾らでもいる。ペースメーカー。人工骨。眼鏡だってそうだ。損なわれた機能を補強し、普通の生活を送れるようにする。君のそれは、一歩先を行っているだけのことだよ」
「……」
ふたりの話している間にも解剖は進む。メスが胸部を切り裂き、そこが広げられようとしたとき。
「……!」
遺体が、目を見開いた。閉じられていたはずのそれが、まるで生きているかのように。どころか、口が開かれ、そして肺腑より呼気を吐き出したではないか。
「OOOOAAAAAAAAAAAAAAA!!!」
咆哮と共に、遺体は。いや。仮死状態だった神々の眷属は上体を起こした。千切れかけた首がかくんと横を向く。気圧された医師らが後ずさる中、そいつは腕を突き出した。
「―――!?」
医師が吹っ飛んだ。見えない腕で突き飛ばされたように宙を舞ったのである。その体は窓に激突し、志織と都築博士の眼前に蜘蛛の巣状のひび割れを作り出す。
分子運動制御。そう呼ばれる超テクノロジーが引き起こした結果であった。
「GGGGGGAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
瀕死の眷属の叫びは、室内を揺らした。いや。見れば、その全身から電光が漏れ出しているではないか。その拡張身体がもたらす異能の力に間違いはなかった。下手をすれば、このまま建物ごと吹き飛ばされる。
医師たちが床を這って逃げようとする中。
疾風が、眷属へと襲い掛かった。
室内へと飛び込んだのは志織。彼女の手にする
「A……AA……」
眷属はしばし痙攣。やがて動かなくなる。神々によって弄ばれた哀れな犠牲者は、今度こそ本当に黄泉路へと旅立ったのだ。
室内は酷い有様だった。器具は散らばり、何名もの医師がうめいている。彼らが生きているのは、不幸中の幸いだと言っていいだろう。
「都築さん。これでもあなたは、化け物じゃあないって言うんですか。私は、この人と同じなのに」
志織は、左手の剣を霧散させると振り返り、そして問うた。
茫然と一部始終を見ていた都築博士へと。
問われた天才科学者は、女神に答えた。
「ああ。君は化け物じゃあない。その人だってそうだ。邪悪な意図を持って機械を組み込まれたとしても、その事実だけは決して変わらないんだ」
騒ぎに人が集まってくる中。ふたりは、視線を交わしていた。
【西暦二〇四二年 埼玉県防衛医科大学校】
老朽化した建物を取り囲むように、防塵カバーがかぶせられていた。
志織が見上げているのは長年関わってきた建造物。いい加減老朽化してきた施設は解体され、新しく生まれ変わるのだった。
思えばここでは長い期間を過ごしてきた。恩師と仰いだ人物。都築博士と出会ったのもこの場所だった。戦時中、彼とは幾度も衝突し、意見をぶつけ合わせたのも今となってはいい思い出だ。今志織がここにいるのも、解体される前にひと目見ておこうと思ったからだった。
世界は変わっていく。時の流れは志織を置き去りにしていく。
それでも、変わらないものもある。
都築博士が遺したもの。人類を守るという強い意思と、知性強化動物たちへの深い愛情。彼の功績は、これからも人類の中に残り続けるだろう。文明が存続していく限り、永遠に。
思い出の場所の最期を目に焼き付けた女神は、その場を後にした。
―――西暦二〇四二年。都築博士と焔光院志織が出会ってから二十六年目、防衛医科大学校の建物の建て替えが行われた年の出来事。
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