夕暮れ時の授業
「何事にも初めてはある。それを知ることは、未来を知ることにも繫がるんだ」
【埼玉県 県立高校教室】
「人類史上初めて生命体への特許が認められたのは一九八〇年の事だ。生命体の製法についてだけじゃあない。生み出された生命体そのものについても特許権が認められるという考え方がこの時初めて生み出された。生命体は特許で保護しないという常識が覆されてね」
刀祢は教室を見回した。時刻は既に四時を回っている。多部制や定時制高校ならではの時間帯ではあろう。刀祢自身は昼の勤務であるが、いくつかの授業は夕刻から通学してくる三部の生徒相手に行う。
「生物特許への道筋を築いたのはアナンダ・チャバクラティー博士だ。インドのカルカッタ大で博士号を取得した彼は、米国のGE社に入社してすぐ画期的な生命体を作り出した。原油成分を分解して、海洋生物が食べられる物質に変換できるシュードモナス菌だ。彼はタンカーからの石油災害に対処するためにこの新生物を生み出したそうだよ。原油で汚染された環境にばらまくわけだ。こうなった菌は誰でも採集でき、増やす事ができる。だから製法だけじゃなく、生物そのものに特許を適用しようとした」
一部・二部の生徒と入れ替わりで授業を受けている三部の生徒たちはやや疲れた表情。彼らの多くは仕事を持っている。それを終えて通学しているのだった。戦前はこのような形態の高校は減少傾向にあったが、戦後は一時大幅に増加した。日に四時間程度の授業を受ける彼らは四年かけて卒業していく。
「GE社の特許申請は最初却下された。製法の特許は認められたが、生物の特許は最初認められなかったんだな。特許商標庁の決定を不服としたGE社は法廷闘争に持ち込んだ。判事は「微生物はウマやミツバチあるいはラズベリーやバラなどと比べると、科学反応物質、試薬、触媒など命が宿っていない化学成分にずっと近い」とGE社を支持し、戦いは最高裁までもつれ込んだ。
最終的にはGE社の勝訴で幕を閉じたが、この訴訟の中で興味深い主張が見られる。「生物への特許権付与は公共の利益にならず、また、微生物に特許を認めることは必然的に哺乳動物やおそらくヒトなど高等生物の特許化にもつながるだろう」という内容だ。この懸念は二〇二〇年、現実のものとなった。
知性強化動物の誕生だ。
その関連技術は莫大なコストがかかり、それゆえに多くの雇用を生み出しもした。彼ら彼女らは多くの権益の微妙な綱渡りの中で保護されているんだ。
だから生物の所有権にかかる議論は最初の知性強化動物が誕生した時、最高潮に達した。長い議論を経て、二〇二一年には国連憲章に知性強化動物関連条項が追加されたんだな。その後の経緯は知っての通りだ。現在では知性強化動物の権利は冒すことの許されないものとなった」
生徒たちの姿勢はあまり真面目ではない。まあそれはそうだろう。情報の授業では知的財産権に関する内容は一通り行うが、あまり人気がない。彼ら自身に関わってくる部分も相当あるはずだが。
その重要性を知るには、生徒自身の向き合い方が必要だった。
「せんせー」
「なんだい」
「そんなこと言っても、僕らには関係ないよね。知性強化動物と関わるようなことなんてないし」
生徒の言に刀弥は苦笑。
「関係ないことはないぞ。例えばお前たちの使ってるスマートフォン。そのGPSだって知性強化動物が何年もかけて軌道を掃除してくれたから使えるようになったものだし、災害救助の時にも駆けつけてくれる。いつ関わるかなんて分からないぞ」
「ふーん」
「ま、世の中の仕組みくらいは知っておけ。どこかで誰かがそれに関わってるのは確かなんだから」
やがて時間となり、チャイムが鳴る。
浮足立った生徒たちを優しく見守りながら、刀弥は授業の終わりを告げた。
―――西暦二〇四一年。初めて生命体の特許が認められてから六十一年、知性強化動物誕生から二十一年目の出来事。
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