呪われた不死

「わたし自身でさえも、わたしを殺すことはできない。この身にかけられた不死の呪いは、あまりにも強すぎるから」


【西暦二〇一七年三月 トルコ南東部エルガニー鉱山地域】


静かな夜だった。

山間部に立ち込めているのは霧。太古の造山活動が生み出した複雑な地形は青々とした緑をたたえ、谷底には膨大な水量が供給されている。

水音に、アスタロトは。四十五メートルの拡張身体で水面みなもを見下ろしたのである。

魚が跳ねたのだ、と知って安堵。神経が過敏になっているきらいがある。無理もなかった。アスタロトは建造されてまだ間もない。この眷属が実戦投入されたのは、これが初めてなのだ。実戦、と言うほどもない、単なる物見であるが。

小柄な巨神だった。漆黒の体躯を包むのは一枚の布。そのような形態をとった流体の塊である。頭部からは二本のねじくれた角が伸び、顔は仮面で覆われていた。漆黒の少女神と言った容姿。それが霧の立ち込める谷間に佇む様子は、まるで神話の一幕のようだった。

もちろん自らが神などではなく、ただの殺戮機械である。という事実は、当のアスタロト自身が最もよく理解していた。神々より離反した眷属を狩るための、対神格型神格。

敵と遭遇せぬ事をながら少女神は周囲を観察。目につくのは左右の斜面に開いたトンネルと、それを繋ぐ高架になった線路くらいのもの。鉱山設備であろうか。巨人の視点で目の前を横切るそれは、まるで玩具のようだった。

身を屈め、慎重にその下を。何も見当たらない。裏側へ視線を向ける。立ち上がり、左右のトンネルを確認。

一通りチェックし終えた段階で、アスタロトはふわりと線路を。慎重に、壊さぬように。

着地した少女神はゆっくりと。素足が陥没させぬぎりぎりの負荷を大地にかける。半ば浮遊した巨体は音もなく前方の地形を踏み越えようとしていた。

注意力が振り向けられる。慎重に進む。

眷属は結局のところ、人間に過ぎない。その身体機能が極限まで強化され、拡張されているだけだ。巨神がいかに多様で高性能なセンサーを備えていようとも、肉体がそれを認識できなければ何の役にも立たぬ。その事実を、黒の少女神は知っていた。

知っていただけだった。だから実戦経験の足りぬアスタロトは気付かない。霧に紛れ、息をひそめていた者どもの気配に。

突如、背後から響いた銃声。あまりにもか細いそれに、アスタロトは

高架の線路上から小銃を乱射しているのは複数の兵士。わけの分からないことを叫びながら、何の効果も発揮せぬ火器を撃ち込んでくる。なんと無謀な!!

アスタロトがとした段階で、彼らは左右に遁走。それぞれがトンネルの方向へと向かう。どちらに対処するべきか一瞬、アスタロトは迷った。

まさしくその瞬間。彼女の左右が。入念に偽装されていた大量の爆薬が、その化学的エネルギーの全てを解放したのである。

「―――!?」

完全な奇襲であった。

対神格用のキルゾーン。爆発のエネルギーは左右の地形を破壊、谷間を乱反射し、増幅。四十五メートルの巨体を一瞬で呑み込み、たちまちのうちに巨大なキノコ雲となる。暴風が木々をなぎ倒し、高架を消し飛ばす。囮を務めた兵士たちがトンネルに飛び込むのと、巨大な衝撃波が谷間を吹き飛ばしたのは同時。

暴風は何十秒も荒れ狂い、そして唐突に止んだ。

恐るべき破壊力だった。この威力に耐えられる者などこの世にいようはずもない。何しろ、谷が丸ごと破壊し尽くされてしまったのだから。注意力の分散した眷属は脆い。警戒していれば耐えられたであろう威力も、ほんの一瞬別のことに引きつけられればそれだけで致命傷足りうる。これほどのエネルギーを叩きつけられれば、どんな眷属であってもたちどころに破壊されよう。

だから。

恐る恐る、トンネルから顔を出した兵士のひとりは、恐怖に顔をゆがめる事となった。

倒したはずの漆黒の巨神。角持つ少女神の彫像は、爆発の以前と変わらず健在だったから。

自分を死の罠へと誘い込んだ敵手の姿を、アスタロトは無感動にいた。

命令を遂行せねばならない。敵を捜索し、発見したならば撃破すべし。という。

だから兵士へと。悲鳴を上げながら銃を乱射するそいつに対して

……ばけものめ

握り潰される瞬間。兵士はその言葉を残して事切れた。

屍を投げ捨てる。反対側のトンネルに飛び込んだ兵士がいるはずだ。見えない。逃げたか。

厄介だった。だからの手を借りるとしよう。

アスタロトは、自らの乗騎を

霧が集まる。たちまちのうちに高密度になり、厚みを持ち、そして実体化する。

巨大な———アスタロトの拡張身体ですら比較対象として不足なほどのそいつは、蛇。それを精巧に象った漆黒の巨像だった。素材は大理石のようにも、金属のようにも見える。まるで液体のように、反射する光が揺らめいていた。

主人の要求に応じて現れた怪物は、そのまま。トンネルを備えた山を、地形そのものを完全に破壊する。

まさしく山と並ぶほどの体躯を誇る乗騎を、少女神はしばし見上げた。自らに与えられた破壊と殺戮のための権能。あまりにも強大なそれに、茫然としていたのである。

自らのへ目をやる。

未だ血がへばりついたそれ。兵士はアスタロトをばけもの、と呼んだ。事実、そうだろう。今のアスタロトを表現するのにそれ以上相応しい言葉はあるまい。テクノロジーによって生み出された殺戮機械。かつてヒトだったもののなれの果て。神々の奴隷にすぎぬ不死の化け物。

「……ああっ……!」

巨神の中。アスタロトは己の顔を両手で覆った。

そう。己はもう人間ではない。その心が、消されていないとしても。

アスタロトの心は人間の時のままだった。ただ、本来とは異なる名前を与えられ、魂に枷をかけられただけだ。

それだけで十分だった。ヒトでなくなるには。

神格の反乱が相次いでいるからこその処置だった。現在主流の思考制御とは違う。信頼性が高いとされる、別方式の思考制御方式の結果であった。

やがて、蛇がアスタロトの。精巧に形作られた舌を伸ばし、アスタロトを勇気づけたのである。

「……そうだね。行こう」

漆黒の少女神がと、乗騎である蛇は。そのまま空を駆け上がっていく。

この時少女神の内にあったのは、神々に縛られた己自身への絶望とそして、ごくかすかな希望。アスタロトは人類側神格と戦うために生み出された。ならばいずれ彼らと刃を交える日も来よう。人類の兵器では無理だった。しかし神々の力を持つ神格ならば、ひょっとすれば。自分を殺す事ができるかもしれない。殺して、この呪われた生に終止符を打ってくれるかもしれない。

自害を禁じられた少女神にとって、それは唯一の救い。

強敵と相まみえる事を願いながら、アスタロトは戦場を後にした。



【西暦二〇四一年 トルコ共和国イスタンブール】


海峡の両側に広がる美しい都だった。

陽光できらめく景色に、ゴールドマンは感嘆のため息をついた。

仕事を終えた直後のティータイムである。知性強化生物研究ネットワークのシンポジウムに参加していたのだった。

ここ、イスタンブールは特異な都市である。ヨーロッパ最大の世界都市であり、トルコの中心であり、ボスポラス海峡を挟んで広がっている。戦前には人口は1400万人にも達したこの都市にかつて門が開いたのはだから、驚くには値しない。

遺伝子戦争期、ここは神々最大の拠点のひとつとなった。地中海のもっとも奥深くにあるイスタンブールの門は、最後に攻略された門のひとつともなったのだ。ゴールドマンもモニカのサポートスタッフとして戦いに同行したから当時の様子はよく覚えている。後方からの支援に徹していたが。

モニカ。ペレ。テオドール。三名もの人類側神格と多数の艦艇。航空機。陸上部隊も参加して死闘が繰り広げられ、そして門は陥落するに至った。神々の側に混乱が見られたのも幸いした。攻勢の直前、配備されていた戦力の相当数が姿を消したのだ。特に、"蛇の女王"のコードネームが付された漆黒の少女神型の巨神はそれ以降一切確認されていない。門の向こうで何かが起きたのだと推測されているが、それが何なのかは今もって不明である。戦後の混乱で調査がおざなりにされたことも影響しているだろうが。

ゴールドマンは、遠くなった過去へと思いを馳せる。

やがて彼は茶を飲み干すと、会計を済ますべく席を立った。




―――西暦二〇四一年。"蛇の女王"が初めて確認されてから二十四年、蛇の女王と冥府の女王が再戦する十一年前の出来事。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る