冥府の女王
「わたし、壊れているのかな」
【西暦二〇一七年 神々の世界のどこか】
燈火は、相手の顔を見上げた。
美しい。長い黒髪。落ち着いた雰囲気。優しげな顔立ちの乙女である。まだ十一歳の少年である燈火よりもだいぶ大柄な彼女は、その視線をこちらに合わせた。
「だってそうでしょう?わたしは人間じゃない。機械に過ぎない。人間の脳を使って自らを拡張しなければ、こうして考える事すらできない道具。なのにこの、借り物の心をまるで自分のものだと思い始めている」
「……君は機械なんかじゃない。人間だよ。誰よりも優しい心を持った、素晴らしい女性だ」
目を閉じ、相手に寄り添う。燈火は隣に座るこの女性以外の眷属を知らない。いや。あの日。神戸が滅んだ日、空に浮かぶ何柱もの巨神の脅威を目の当たりにしたが。あれとこの女性がどうしても、自分の中では結びつかない。
自分のような子供の監視役くらいにしか使いみちのない、欠陥のある戦略級神格。神々が都市破壊型として生み出しながら、破壊機能があまりにも無差別だったために実戦投入できなかった最強の規格外品。要人のための肉体として選ばれ、入念な不死化処置を受けた燈火の監視役であり、護衛兼世話役。
そして、燈火の大切なひと。
それが、隣に座っている女性の正体だ。
神格は人間の脳で思考する。そして脳は可塑性に富む。だから神々の眷属といえども後天的にその性向が偏向する可能性があるという事実を、少年は知っていた。知性とは、複雑で予測不可能な無数の積み重ねの結果であるから。
簡単なことではない。長い期間をかけた対話と交流。信頼の積み重ねの果てに出来上がった女神と少年との絆はだから、奇跡と呼んでいいに違いなかった。
「砂山のパラドックスという話がある。砂山から砂を一粒取り去っても、それは砂山だ。
ふたつぶでも。みつぶでも変わらない。けれど、最後の一粒まで砂を取り去ってしまったら?」
「もう、砂山じゃあない?」
「そうだよ。昔母さんから聞いた話だけどね。
今の君にも当てはまる。君の肉体は人間だ。カスミの脳に、ヘル。君は間借りしている。結びついている。神格と脳は相互に作用しあってものを考えている。どこまでがカスミでどこまでが君なのか区別することに意味はない。砂山がどこまで砂山なのか問うように。
もちろん僕は、君もカスミも両方、大好きだけどね」
「……ありがとう、燈火」
そこは、ビルディングの屋上。周囲にも、ここよりは低いが幾つもの高層建築が見える。超近代的なそれらは、屋上や各所が緑に覆われていた。この世界の自然界には存在せぬ色。それは、開戦以前の調査段階で地球から持ち込まれたものが繁茂した結果である。
そして、周囲の樹海。硝子の葉を持つ木々の狭間に、小さな町が広がっていた。
山向こうに沈みつつある夕日に照らされたここは、神々の領域。門から遠い、平和な地である。
かつてはそうではなかった。神戸に開いた門からほど近く、そして
ふたりは、地平線の彼方を見た。沈みつつある夕日に代わって現れつつあったのは、夜空。
「帰りたい?」
問いかけに、少年は頭を振った。
「ここでうん。と答えれば、君は万難を排して僕を帰してくれるだろう。だから僕はこう答える。帰りたいとは思わない」
「燈火……」
「君とカスミはこの先何百年でも生きていける。この世界で、ひっそりと。君が心を持ったことを、神々は気付いていない。これからも気付かないだろう。
せっかく永遠の命があるんだ。僕のために無駄にしなくていい。
それに」
故郷はもうない。開戦の日、燈火の目の前で消滅した。兄はどうなっただろう。母は。父は出張で街にいなかったが。ヘルを通して知ったが、静岡も消滅したという。祖母の生存は絶望的だろう。それどころか日本各地が破壊された。神格の威力ならばそれも容易い。仮に地球に帰れたとしても、もうそこは人間が誰も残っていない事すらあり得るのだ。
それほどに苛烈な戦いが、あちらでは繰り広げられているという。
だから少年は、無理に帰還したいとは思わなかった。今となりにいてくれる女性。神格によって分断された脳内に宿る、二つの人格を危険にさらしたくはなかったのだ。
ヘルの脳内には、本来の人格が残っている。ヘルに肉体を奪われた人物の意識が。カスミと言う名を持つ彼女は、ヘルと共存していた。ふたりで一つの肉体に宿り、少年を慈しんでいたのである。極めて稀な———唯一と言っていい事例だった。神と人とが、共存しているとは。
やがて。陽光が完全に失われ、代わりに幾つもの光が、空を流れ落ち始めた。
視界の隅には月。奇妙に小さなそれは、砕けたようにも見える。
流星雨の降り注ぐ夜空であった。
「奇麗……」
「そうだね。まるで、女神が流す涙のようにも思える」
燈火は、その景色をしっかりと眼に焼き付けた。いつまで生きていられるか、分からないから。今は戦況がひっ迫している。燈火を肉体とする予定の要人も健康だと聞く。今日明日に肉体を奪われることはないだろう。だがその先はどうなるか。
残された日々を、しっかりと生きよう。
少年は、誓った。
【西暦二〇四一年 静岡県 墓地】
はるなは、墓の前で手を合わせた。
どこまでも続く、緑に覆われた丘陵だった。規則正しく敷かれている四角いプレートは無機質な墓碑。そのひとつに刻まれている名前は三つ。都築弘。都築静香。都築燈火。
霊園。それも先の戦争の犠牲者を弔うために始まったものだった。
「―――都築博士。刀祢君は立派にやってます。相火君はもう十一歳。戦争が始まった時の刀祢君と同じ歳になったんだよ。しばらくしたら、三人目の子も生まれるんだって。私たちもみんな元気。あたごは火星に行くんだって息巻いてるし、ちょうかいは絵でいろんな賞を貰ってます。ほかのみんなも順調です。
だから、そちらでみんなを見守ってあげてください」
故人への報告を終えたはるなは立ち上がった。この獣人は、刀祢の代わりに来たのだ。三人目の子をおなかに抱えた妊婦に寄り添う、兄弟のように思っている男性の代理として。
南天を見上げる。雲の向こう、うっすらと見えるオービタルリングがかかってどれほどになるだろう。すっかり見慣れた光景がそこにはあった。
最後の門が閉じてもう二十三年にもなる。世界各地で呼応し、残った門全てへの大規模な攻勢が行われたのだと。もはや人類に余力などなく、短期決戦。乾坤一擲の攻撃が為されたのだと、はるなは聞いている。
生まれてこの方、神々の再侵攻を意識しなかった日などない。
いかにその可能性が低かろうとも。人類を守るためにこそ、はるなは生まれたのだから。すべての知性強化動物がそうだろう。
人類の守護神たる事を自らに課した獣神は、誓いを新たにすると墓地を去った。
―――西暦二〇四一年、盆。冥府の女王が甦る十年前、はるなが冥府の女王と邂逅する十一年前の出来事。
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