社会の記憶

「人類にとって重大な出来事は忘れ去られることなどないとみんな思っている。だが本当にそうだろうか?」


【埼玉県 都築家】


「また書いてるんだ」

はるなは刀祢の作業を見て立ち止まった。

大晦日前の都築家でのことである。

刀祢が向かっているのはキーボードを付けたタブレット。昔と比べて随分と高性能になったが、これもなかなか廃れない。そして、横に置かれた幾つもの古ぼけたノートやメモ。

「うん。人間、いつどうなるか分からないし」

彼が書いているのはネット上の記事である。SNSでも投稿しているその内容は、自らの体験。遺伝子戦争当日以降、過ごしてきた日々について書き記しているのだった。こういった体験記は世界中で多数あげられているだろうが、刀祢のそれは特殊性では際立つだろう。数少ない神戸からの生還者であり、初の知性強化動物が誕生する経緯を、最も間近で見ていた部外者のひとりなのだから。さすがにクリティカルな内容については投稿する前に関係者にチェックをお願いしていたりもする。

「結構有名みたいね。これ」

「志織さんの話みたいな派手さはないけどね」

「あれは例外でしょう」

ふたりは苦笑。志織に関する様々なエピソードは伝記としてまとめられ、出版されている。彼女だけではない。人類側神格は今生きている者もそうでないものも様々なエピソードが知られているし、多くの著名な英雄たち。名も知られぬ人々。幾多の物語が世界で連綿と語り継がれていた。

「記録に残しておかないと、人間は何があったか忘れてしまう。いや、記録があっても、だな。だからモニュメントや博物館が作られるし、定期的に出来事を思い出すための行事だって行われる」

「遺伝子戦争は忘れないと思うな」

「そうだね。人類が永遠に語り継いでいくことになるだろう。次の異種族との接触が起きるまでは。

でも、そうじゃないものもある」

「例えばスペイン風邪のような?」

刀祢は深くうなずいた。

「わずか1年で一億近い命を奪った大災害だ。にもかかわらずこの、1918年のインフルエンザの大流行は忘れ去られた。その後に出版された多くの教科書ではこの事実は無視されている。せいぜい第一次世界大戦のおまけだな。二度の世界大戦で亡くなった人は記念碑や慰霊祭で追悼されるし、タイタニックやアポロ計画は映画にもなった。なのになぜ、この疫病の記憶はこんなふうに忘れ去られたんだろう?」

「社会には記憶できるものとできないものがある?」

「うん。集合的記憶という概念がある。インフルエンザのパンデミックは社会が記憶しにくい側面があったんだろうな。もちろん今と百年前は社会的背景が違うから、今度同様なパンデミックが起きても記憶される可能性はあるだろうけれど。もしそうなったら、ウィキペディアのスペイン風邪の記事は何百万回も閲覧されるんだろうな。

社会が記憶を残すには、物語が必要だ」

「真珠湾攻撃やノルマンディー、ホロコースト。キリストの生誕。グリーンランドの発見。9.11。そんな?」

「たぶんね。思い返せば、僕が子供の頃外国と言えば欧米や中国なんかで、遥か遠くのアフリカとか中南米なんてイメージすら湧かなかった。僕らに届けられた物語がなかったからだ。

スペイン風邪も同じだ。当時の記事では確かに詳細な情報が載っているが、犠牲者や生還者に関する情報は少なかったと思う。物語性がなかったんだな」

「だからあなたは物語を残すのね」

「そうだね。たぶんそうだ」

話し終えると、刀祢は執筆を再開。はるなもやりかけていたことを思い出すと、荷物をとりに戻った。九尾の姉妹たちは毎年交代で、年末休暇の日をずらしている。今年は大晦日から正月にかけて仕事に就くのははるなの番だった。

「じゃあ、行ってくるね」

「よいお年を」

「うん。よいお年を」




―――西暦二〇三八年年末。スペイン風邪から百二十年目、第一次門攻防戦の十四年前の出来事。

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