ウサギの足
「うさぎさん!うさぎさん!!」
【イギリス 捕虜収容所】
ふたつのもふもふが睨み合っていた。
ひとつは人型。四肢があり、頭部を持ち、大きな脳を備え、服を身に着け、そして羽毛と鳥相を持った幼子である。
もう片方のもふもふは、長い耳が生え、つぶらな瞳を持ち、発達した後肢と優れた跳躍力を備え、白い毛に覆われた野生動物。ウサギであった。
じっと見つめ合う両者であったが、幼子が動いた途端。言葉通りの脱兎を実演するウサギ。
起伏に富んだ荒野をあっという間に駆け抜けていった生き物をしばし見ていた幼子は、やがて諦めたか。とてとて。と母親の方へと歩いていった。
「うさぎさん!」
「行っちゃったね」
「うさぎさん!」
息子の興奮ぶりにムウ=ナは微笑んだ。よほど衝撃的だったのだろう。
幼子を抱き上げる。かなり体重は増えてきたが、苦と言うほどではない。神々の剛腕は人間を大きく上回る。神格のような超人的なパワーはさすがに備わってはいないが。
抱き上げられたグ=ラスは、遠方へ手を伸ばした。ウサギが消えた先。収容所の、鉄条網の向こう側へと。
「いく!」
「そう?」
息子をあやしながら、母はゆっくりと歩く。他の捕虜たちは今の時間労働に駆り出されているから、収容所には母子以外には数名しか残っていない。従事しているのは外の清掃作業。ここの敷地の外、人間たちの領域で働いているのだ。もちろん厳重な監視下での話ではあるが。息子が生まれる前は考えられないことだった。おそらく、グ=ラスが外へ出る時の準備なのだろう。周辺地域の人間たちの方を、神々の存在に慣れさせるための。
周囲を見回す。人類からすればここは荒野だが、ムウ=ナにとっては違う。故郷が荒廃し、多くの種が絶滅した後に生まれた世代であるこの神は、地球に来るまで本来の自然というものを見たことがなかった。驚くべき荒々しさ。多様性。わずかでも隙を見せれば猛然と牙を剝く異郷。門が開く前、地球侵攻のための数々の学習と訓練は本物の生態系の前では無力だった。遺伝子戦争緒戦、まだ順調だった時期ですら事故は絶えず、士官だったムウ=ナは心労を募らせたものだ。
この捕虜収容所の敷地内には無数の生物が集っている。鳥の鳴き声は十種類以上判別できるようになったし、地面には無数の蟲たち。油断をすればさされたり血を吸われたりする羽目になるし、蛇や蜥蜴。先のウサギのような小型の哺乳類も多数いた。そして数限りない微小生物たち。細菌などの疾病の原因となるものも当たり前にいる。
ここで過ごして初めて、世界が滅ぶということの意味を真に理解できた気がした。故郷はもう滅んでいる。自分たちや長命な木々と言ったわずかな例外がまだ、大地にしがみついているだけだ。
不穏な考えを振り払う。故郷は十分な個体数のヒトと、そして遺伝子資源を確保した。甦るだろう。自分はもはや故郷を目にすることは叶わないが、しかしそこに生きる同胞たち。ムウ=ナの家族や友人知人たちを含む神々は存続するに違いない。
「どうしたの?」
「だいじょうぶ。平気よ」
心配する幼子に笑いかけると、ムウ=ナは空を見上げた。
雲が流れている。風が出て来た。今夜には雨が降るかもしれない。暖かく過ごせるよう準備しよう。
そんなことを考えながら、母子は家路についた。
―――西暦二〇三八年。神々の世界で大量絶滅が問題となり始めてから二世紀半、グ=ラスが誕生して三年目の出来事。
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