進化から見る歯の健康

「人類は私たちの鏡だ。だから彼らの開けた口の中は、私たち自身の口の中と同じ姿をしている」


【イギリス 捕虜収容所 屋内】


ゴシゴシと、歯が磨かれていた。

クチバシをぱっくりと開けて為されるがままにされているのは鳥相の幼子である。母親の手に握られる人間用の歯ブラシは、しっかりとグ=ラスの口内を清掃していた。

やがて作業が一段落したムウ=ナは、プラスティックのコップを息子に与える。受け取ったグ=ラスは、嬉しそうに蛇口をひねり、水で中を満たし始めた。

「最近虫歯になるひとがいるけどどうしてかしら」

「口内環境が変化したためだろうな」

返事をしたのはドワ=ソグである。食事の片付けをしながら、彼は妻の疑問への答えを発していた。

「以前は出される食事は粗食だった。我々の健康を害さない最低限度のカロリーと栄養価を提供するだけの代物だ」

「あれは酷かったわ」

以前を思い出してムウ=ナは表情をゆがめた。見慣れていない人間であってもその感情の変化は伝わるであろう。

室内を見回す。以前は隙間風の吹き込むあばら屋と言った家屋に住まわされていたが、今は違う。採光に優れ、冷暖房とバスルーム、洗面所、キッチン、清潔なトイレと言ったものが備わったプレハブ家屋になっている。集会所に行けばテレビも置いてあった。視聴できる番組には制限があったが。

そして、食事。まずまず、満足できる水準のものが提供されるようになっていた。

ドワ=ソグは頷き、言葉を続ける。

「劣悪な食事は、かつての祖先が暮らしていた環境に非常に近しい状態でもあった。かつて文明と言えるものを持たなかった我々は狩猟採集能力を発達させ、移動しながら日々の糧を得ていた。たくさんの肉にありつけたときもあっただろうし、逆に飢えで何日も苦しみ続けることもあったろう。だが、祖先はそんな生活に適応していた。口内環境は不安定で得られる食事が不足しがちな状況で最も良いコンディションを維持できるように進化していたのさ。機械的な応力。ストレス。摩耗。硬い食物。そういったものに」

「それが今の私たちにも受け継がれているというわけね」

「ああ。私たちだけではない。今は絶滅した幾多の動物もそうだし、地球における生物群も。農業を始める前の人類だってそうだった。歯は何億年もの時間をかけて進化したものだ。非常に強く、効果的な咀嚼に適しているんだ。だから虫歯とも縁がなかった。だがそれは、ある特定の口内環境でしか機能しない。特に口内の微生物のバランスや化学物質、損傷や摩耗が条件となる。それが食生活の変化した、現代の私たちとミスマッチを起こしたというわけさ」

「惑星ごと私たちの体を作り変える時に、そのあたりも改良しておけばよかったのに」

「それはなかなか難しい。私たちの肉体の強化はまず第一に放射線耐性が主眼に置かれている。九百年あまりの長寿はその副産物だな。遺伝子の自己修復性を高めることで、超新星爆発によるダメージを受けても遺伝子の損傷を回復できるようになっているわけだ。運動能力の向上なんかもついでと言えるな。あまり大規模な改造を行うと安価に、かつ私たち全員に施すことは困難だったろう。最小限の遺伝子操作で済ませようとしたはずだよ。それですら、あらゆる生物は最後には死滅した。私たち自身もそうなりかけている」

ふたりは、口をそそぎ終わった息子に目をやった。

「グ=ラス。歯は大切に使うんだぞ。乳歯のうちに歯磨きの習慣をしっかり、身に着けるんだ」

「……?」

「まだ分からないようね」

妻の言に夫は苦笑。おいおい習慣づけていくしかないだろう。

「さ。歯を磨いたら、しっかり寝ましょうね」

親子は寝床に入り、そして一日が終わった。




―――西暦二〇三八年。樹海の星の改造が終わってから四百年あまり経った日の出来事。

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