尾根の道

「誰もが自分の世界を持っています。それが実在の全てと思ってさえいますが、実際には誤りです」


【日本国 兵庫県神戸市北区キーナの森】


よく整備された森の遊歩道だった。

大気はまだ冷え切っているが、様々な生命の息吹が感じられる。鳥はさえずり、春の訪れを待ちわびてているのだろう。

九曜は周囲を見回した。

尾根に沿い、管理された生態系。驚くべき複雑さを備えたここは、知能機械にとっても非常に興味深い。

同行者へ目をやる。

「相火さん。寒くはないですか」

「へいき」

この少年と出会って一年になる。彼は「またね」という約束を記憶していた。神戸に来るにあたって、両親を通じて九曜にも連絡を取ってきたのだ。結果、はこうしている。都築夫妻も後からやってくるだろう。

「九曜には、森がどう見えてるの?」

「この体の感覚器は人間と同じです。光。音。振動。嗅覚や味覚。触覚。そういったものを備えています」

「でも、ここにいるのは九曜の全部じゃないよね」

「そうですね。システムとしての私はとても巨大です。それは様々なセンサーに接続され、ビッグデータに触れる事が許されています。私が見ているものは、人間のそれよりはるかに幅広いものです」

「人間はちょっとだけみえる?」

「ええ。例えばあなたの目の後ろには、物体を反射する電磁波をとらえるのに最適な受容体があります。けれどこれがとらえるのは全部ではありません。そのうちのごく一部。光と呼ばれるものだけです。

けれど、紫外線が見える者もいます」

九曜が指さしたのはミツバチ。まだ少々時期が早いはずだが、活動を開始したのだろうか。

「病院の機械は磁気やX線が見えますし、蛇は赤外線を捉えられます。みんな世界の見え方は違う。生命の形がそのまま経験できる物事を決めるのです。皆が環世界を持つのです」

「じゃあ、人間の世界がわかるのは人間だけ?だから九曜は人間の形の体があるの?」

「ええ。ですが、同じ人間であっても見える世界には違いがあります。例えばあなたが"赤"と呼ぶものを刀祢さんが見ても、"赤"と呼びます」

「うん」

「けれど刀祢さんの視界では、それは黄色く見えているかもしれません。黄色いものを刀祢さんは"赤"と呼んでいるのかも。それでも共通認識は得られます。同じものを見た時の色の呼び方を赤と定義しているからです」

「ややこしいね」

「はい。ややこしいですね。世の中には色が分からない人もいれば、普通の人より色彩が豊かな世界に生きている人もいます。みんな違う」

「たようせいだ」

「はい。多様性です。今は人類史上、最も多様性に満ちた時代だと言われています。人の形。定義。そういったものが最も大きく広がった世界だと」

「これも、たようせい?」

相火は、九曜と握る手を見た。

「ええ。多様性だと思います。機械と人間がこうして手を握っているのも」

「そっか」

その時だった。相火の両親が追いついてきたのは。

少年は、彼らへ手を振った。九曜はそんな様子をただ、見守っていた。機械らしく、無感動に。そして正確に。




―――西暦二〇三七年三月末。九曜と相火が知り合って一年目、神戸が奪還されてから二十一年目の出来事。

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