魔女の道

「"ジークフリート"!!どこだ。出て来い!」


【西暦二〇一六年四月二十八日 ドイツ連邦共和国ハルツ山地 "魔女の道"】


谷間に叫びが木霊こだました。

雪が深々しんしんと、降り注いでいた。高さ数百メートルの断崖に生い茂る木々には雪が深く積もり、その姿を覆い隠している。下方の川筋には本来幾つもの村落が点在しているが、そこが無人となっていることを、神々の眷属"シグムント"は知っていた。

住民はみな、神々の侵攻とそして何より、放射能汚染に恐れをなして逃げ出していたから。

「戻って来い!!俺とお前の仲だ、悪いようにはせん。お前は混乱しているんだ。再調整処置を受けろ!」

音声と通信。双方は共に広がっていくが、どこまで届くかは分からない。雪が吸収してしまう。厄介だった。センサーも攪乱され、敵手がどこにいるか分からない。危険な地表ぎりぎりまであえてシグムントが降りてきているのもそれが理由だった。

季節外れの天候に辟易しながらも、シグムントは巨体で周囲を見回した。その姿は血の色の武神像。甲冑で身を守り、盾を背負い、腰に斧を吊り、剣で武装した50メートルの巨像である。1万トンの質量が渓谷で静かに浮遊している様子は、もし見上げる者がいれば畏怖を呼び起こしていただろう。

「知っているぞ。家に帰ってどうする気だ!?娘は十歳まで生きられないと医者に言われたんだろう?妻だってお前と娘を見捨てて出て行った!酒浸りの日々だったじゃないか。もうお前には何もない。何もヒトの世界には残ってはいないんだ!!

俺と一緒に戻ろう。神々は俺たちに使命を与えてくれる。生きる目的をだ。お前を必要としてくれる!」

シグムントは、待った。敵手。離反した同胞、神々の眷属"ジークフリート"の返答を。

果たして答えは、返ってきた。谷間を乱反射する通信波という形で。

「……それでも。それでも、娘はまだ生きている。わたしを待っているんだ。家へ帰らなければならない」

「まだ生きているかどうか分からないじゃないか!この情勢だ、機械がとっくに外されているかもしれん!それに生き延びたとしてどうなる?知的発達も遅れた、自発呼吸すら困難な子供が生きていて幸せになれるとでも?」

「だからこそ行かねばならない。頼む。行かせてくれ、カール」

「オレは"シグムント"だ。もうカールじゃない。お前がもう、テオドール=クルツじゃないように。そうだろう?ジークフリート」

「……私はテオドールだ。君が自らをシグムントと呼ぶのと同じくらいには」

「―――お前を行かせるわけにはいかない」

「……なら、私は君を討つ。そして家に帰る」

「残念だ」

「ああ。私もだ」

眷属となる以前も。なってからも親友だったふたりの、それは断絶の言葉。

通信が途切れた次の瞬間、雪が。それは谷間全体を巻き込んで、そして巨大なひとつの形態を作り上げていく。

渓谷の深さすらも越えようかというそれは、雪の竜。シグムントの数十倍はありそうな大質量は、ジークフリートの分子運動制御によって作り出されたものだろう。いまだに姿をひそめたまま、これほどの巨体を操るとは。

そいつは、ると、一気にきた。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」

渓谷は巨大とは言え、巨神にとっては狭い。必死で後退するシグムントを追う竜。

武神像が上空へ逃れようとしたところで。

「!?」

横手より飛び出してきた巨体の一撃を、シグムントは辛うじて受け止めた。その真下を、コントロールを失った雪の竜が慣性のままに雪崩なだれていく。

大剣と甲冑で武装した鈍色の武神像。ジークフリートだった。

間近に迫った兜を、シグムントは睨みつける。

「―――無駄だ。お前は唯一の勝機を逃した」

言葉通りだった。パワーではシグムントの方が圧倒的に上。鍔迫り合いの格好となったジークフリートはじりじりと押しやられ、断崖まで追い詰められていく。

更には血の色の剣が、徐々に敵手の鈍色の大剣へと食い込んでいくではないか。刃の構成原子がこすれ合うことで生じる高周波振動が、大剣の分子間結合を切断した結果であった。

もはや逃げ場を失った敵手は、断崖へとめり込んでいく。いや、押し込められていくのだ。

ジグムントは自らの権能を最大限に発揮した。高周波振動のパワーを限界まで引き上げたのである。それまでが嘘のように抵抗が消滅し、大剣もろとも断崖。そして鈍色の巨神が一気に切断された。

致命傷だった。一拍置いて鈍色の巨体が砕け散り、かと思えば大地に降り注ぐ前に霧散していく。

死闘を制したシグムントは動きを止めた。いや。宙にその巨神を静止させたまま、生身を外へと晒したのである。

自らの拡張身体の掌へとせり出してきた彼自身の肉体は、屈強な男性のものだった。

「……」

周囲からは雪がすっかり消えていた。先のジークフリートによる分子運動制御によって、根こそぎ運び去られていったからである。その証拠に下方の谷間を埋め尽くしているのは、膨大な雪の竜の残骸。

敵手がこの世に残した最期の痕跡をしばし見下ろした眷属は、やがて身を翻した。そのまま巨神の中へと戻ろうとして。

音もなく飛来した弾丸が、彼の頭蓋を撃ち抜いた。

いや。音もなく、とは正確な表現ではない。弾丸の速度が音を置き去りにできるほどだったというだけのこと。

どちらにせよ。遅れてやってきた銃声を、彼が聞くことはなかった。倒れて行くシグムントの瞳に一瞬だけ、射手スナイパーの姿が映り込んだのみ。

血の色の巨神が砕け散り霧散していく中、男の遺体は落下していった。雪に覆われた谷底へと。

「―――さらばだ、友よ。私は帰る。君の屍を乗り越えてでも」

対物狙撃銃を下ろし、テオドールは呟いた。雪化粧がはぎ取られた木々の合間。巨神戦が予想される危険な場所に生身で身を潜めていたのも、この瞬間を狙ってのことだった。

空を見上げる。今も振り続ける雪には死の灰が混ざっているはずだ。原子力発電所が破壊された結果まき散らされた、多量の放射性物質が。ほんの一週間前、日本で神格が起こした反乱によって生じた、それは混乱の余波だった。神格の反乱と人類の反撃に神々は慌てふためき、そして失敗したのである。

神々は必至で状況を収拾しようと試みているが、汚染を抑え込めるかどうかは微妙なところだ。人類を説得し、その試みの妨害をしないように自制させねばならなかった。困難だがやらねばならない。さもなくば犠牲者はさらに増えるだろう。

それが神々の命令に従い、結果として原子力発電所を破壊してしまったテオドールの責任だったから。

対物狙撃銃を肩に担ぐと、テオドールは歩き出した。死の灰も神格を害する脅威に値しない。最大の敵を討った今、もはや彼を害することのできるものなど存在しようはずがなかった。

テオドールは、不死の英雄なのだから。



【西暦二〇三五年四月 ドイツ連邦共和国ハルツ山地 "魔女の道"】


「……戦後、軍の捜索でもカールさんの遺体は見つからなかったって聞いた。お父さんは言ってた。カールはこのハルツの山々に抱かれて眠りに就いたんだって」

ハンナは前方の窪みを見つめながら言った。断崖にできたそれは、五十メートルもの大きさとそして斜めに走る一本の断裂から為る。十九年前、先の戦争のごく初期に刻まれた、戦闘の痕跡だった。

そばを歩いているのは獣相を備えた女性。ケルンだった。

機械仕掛けの肉体を備えた少女の語りを、親というものを持たないこの超生命体は聞いていた。

「カールさんはお父さんの幼馴染だった。軍に入ってからもずっと交流があったんだって。門が開いて、神々に連れ去られた時も。眷属にされた時も一緒だったそうよ」

「……それを倒して、テオドールは帰ってきたのね。あなたのところへ」

「うん。自慢のお父さん」

「……」

ケルンは、断崖を見上げた。世間には様々な親がいるのは知っている。ハンナの実母のように子を見捨てて出ていく親もいれば、テオドールのように子のために命を懸ける親もいる。遺伝子戦争はあらゆる親子にとって試練の時代だった。子を失った母。父を失った息子。家族を見捨てる選択をした者も数多い。極限状態の中で様々な悲劇が起きたのだ。

ケルンはハンナの実母が今何をしているか知らない。夫は語らないし、自分も知ろうとは思わなかった。ただ、眼前の少女。夫の連れ子である娘の母親として自分は相応しく振る舞えているのだろうか?そういったことを、時折思う。

子は親を選べないが、親もどのような子が生まれてくるか選べない。その関係を維持するのは両者の不断の努力の賜物だろう。

それが、今まで人間を観察してきた上で出した、ケルンの結論だった。

「それにしてもお父さん、遅いね」

「もう来てるわ。すぐそこに」

ケルンは、振り返った。夫が追いついてくる方へ。

やがて再生された遊歩道を登り、一人の男が姿を現した。

家族は、そちらへ歩み寄っていった。




—――西暦二〇三五年四月。テオドール=クルツが人類側神格となって十九年、放射能汚染に伴う"魔女の道"の立ち入り制限が解除されてから六年目の出来事。

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