風の神の島々

「………ぉ…?」


【イタリア共和国 エオリア諸島】


朝日を反射して、海が輝いていた。

エオリア諸島は複数の火山島よりなる風光明媚な地域である。その呼び名はギリシャ神話の風の神アイオロスにちなみ、紀元前二十世紀頃にはすでに人が住んでいたという。青銅器時代の遺跡やストロンボリ式噴火の由来ともなった活火山、ギリシャ、ローマ時代の建築物、温泉、今はまだ時期が早いが海水浴も楽しめる観光地であった。また二千年にユネスコの世界遺産に登録されたイタリア唯一の自然遺産であり、戦後も登録抹消を免れた数少ない世界遺産でもある。

寒さの残る風が流れる船上。シチリア島ミラッツォ港より出発、北上している観光船の客の入りはそこそこといった塩梅か。家族や恋人、友人といったグループがいくつも散見された。

その一つ。船のデッキから身を乗り出した、まだ幼い男の子に、父親は苦笑していた。

「気を付けなさい。落ちるよ」

「見て!イルカ!!」

「お?ほんとうだ」

見れば確かにイルカの群れ。流線型の水中に適応した構造のいきものたちが多数、ジャンプしながら並走している。

「ねえ。イルカってお魚じゃないの?」

「うん?そうだよ。あれでも哺乳類。私達に近い生き物なんだよ」

「ふうん」

イルカの祖先は偶蹄目に属し、陸上から水中へと戻っていった種と言われている。河口付近へと生活の場を移す過程で何百万年もかけて水中に適応していったのだった。進化のメカニズムの妙である。

「あ。人がいる」

「うん?―――ほんとうだ。大丈夫なのかあれは」

目を凝らせば、イルカの群れの中に確かに人の姿が。遠くてよく見えないが、褐色の肌を持ち、水着を身に着けた女性のようにも見える。海に落ちたか。だとすれば助けねば。いやちょっと待て。人間が、イルカの群れと一緒に泳いでいる?

混乱した父親は、近くの船員へと助けを求めた。自分では判断できない。

客観的に見て彼の行動は妥当だった。そのままならばすぐに疑問は解消し、問題は解決していただろう。しかしこの時彼はもう一つ。重要な役割を忘れていた。

息子が船から落下しないか見ておく、という。

「あっ」

振り返った時には既に男の子の姿はなかった。

「た―――大変だ!船員さん、子供が!」

たちまち船上は大騒ぎになった。

船が停止し、同乗していた観光客も含む多くの人が視線を海上に向ける中。

突如、海水が盛り上がった。

「……え?」

それは、手だった。

赤黒く、まるで溶岩のように輝くそれは、こんな状況でなければ見入ってしまうような精緻さ。とてつもなく巨大な発光する彫刻が、まるで生き物のように伸びてきたのである。腰を抜かす観光客たち。

しかし、父親だけは違った。彼の目はを見ていなかったからである。彼が見ていたのはその指先。優しく差し出された、小さな男の子だった。

咳き込んでいる息子を素早く抱き上げると、目の前では後退していく。かと思えば、それはたちまちのうちに霧散していった。まるで霧のように。

呆然とする人間たちは、ややあって気が付いた。海上でこちらに手を振っている、褐色の肌の少女に。

やがて彼女は水に潜り、姿を消した。

「珍しいもんを見ましたなあ」

父親が振り返れば、そこにいたのは観光船の船長。

「あれは一体」

「近くに住んでる神格ですよ。おおかた晩飯のおかずを取るついでに遠出してきたんでしょう」

「あれが…初めて見ましたよ」

「なんにせよ、運が良かった。毛布を用意します」

「助かります。それと、彼女にお礼を言わねば」

「伝わるよう手配しておきます」

父親は頷き、息子の容態を確認した。幸い生命に別状はなく、その後の観光を楽しむこともできた。




―――西暦二〇二四年。世界遺産の戦災調査が開始されて四年目の出来事。

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