手染めの浴衣

「化学療法は、染色産業から生まれた。生物学と化学の素敵な結婚が、全身を駆け巡る薬に病巣だけを攻撃させる方法を生み出したんだ」


【東京 隅田川花火大会会場】


手染めの浴衣だった。

鮮やかな紺の朝顔が印象的なそれで身を包む肢体は、しかし人間のものではない。原型となる生物の遺伝子を操作し、人間に近い構造の骨格と臓器、そして脳を備えるように改良された生命体。すなわち知性強化動物である。

はるなだった。彼女は微笑みながら、同行者たちの会話を聞いていた。

「薬って染料と関係してるってこと?」

「ああ。一九世紀、ゼロから作れる安価な染料が誕生した。野菜染料と違って腐ることがなく、製造が簡単な上に貯蔵も容易だったんだ。綿布の製造需要が呼び起こした実用化学は、ここから新たな段階に入った。合成化学が爆発的なブームになったんだ。

当時医学と化学の間にはまだ壁が隔たっていた。化学で作り出される物質は医学に資することができなかったんだ。けれどそれから数十年後、一人の医学生が染料を動物に使うことを思いついた。組織を染色するために」

「動物……観察しやすくするため?」

「正解だ。

結果は驚くべきものだった。化学染料は組織全体を染めなかった。細胞のある部分だけを選択的に染め、構造をくっきりと浮かび上がらせたのさ。染料は細胞の中にある特定の化学物質だけを見分けて結合できたんだ。

数年後の一八八二年には、結核菌を染め出す化学染色法が発見された。更には毒素を動物に注入すれば、その抗毒素が作られて結合し、不活性化することも突き止められた。抗体だよ」

「なるほどなあ」

「病気の症状を緩和するのではなく、根本的に治せる物質を作れるんじゃないか?という発想もこの延長線上にある。微生物に———標的にだけ直接結合してそれを破壊する化学物質だ。それは成功を収めた。無数の病気が退治されて行き、そして最後の標的を残すのみとなった。

それが、がんだよ」

「がん細胞は病原菌じゃないもんね」

「ああ。

がんは正常な細胞が変異したものだ。だから正常な部分と区別するのは極めて難しい。転機があったとすれば第一次世界大戦だ。

化学兵器———マスタードガスという兵器がある。呼吸障害、火傷、失明、水疱、凄まじい威力の物質だ。それだけでも恐ろしいものだったが、生存者には奇妙な異常が発見された。骨髄の造血細胞が減少していたんだ。化学者たちは当時気付かなかった。この性質。化学兵器の持っていた、特定の細胞のみを狙い撃ちにする威力が、がんに対抗する切り札になると」

「成功したの?」

「ああ。初期にはマスタードガスをごく少量用いてがん細胞を殺すことに成功した。もっとも、そこからさらに目覚ましい成果を出せるようになるには時間がかかったがね。様々な物質や方法が試され、いろんな成功と失敗が積み重なった。

がんとの闘いは今も続いているが、人類は勝利を収めつつある。いずれこの病気が完全に克服されるときも来るだろうな」

「父さん、ひょっとして僕らを安心させるつもりで話してる?」

「ばれたか」

都築博士がばつの悪そうな笑みを浮かべ、刀祢とはるなはそれにつられて笑った。

のんびりと、人込みの中を一家は進む。

ふと、刀祢は周囲を見回した。

時折はるなに向けられる群衆の視線は、見慣れない外国人を見かける時と同程度のものだった。彼女の備える獣相は風景によくなじんでおり、違和感はない。

知性強化動物が誕生して既に二年。多くの人はモニターごしに、あるいは新聞や雑誌の紙面上でその姿と実態とを幾度となく目にしている。少しばかり変わった隣人、という地位を、知性強化動物は確立していた。

都築博士の目論見通りに。

彼が天才と言える点はそこなのだろう。

刀祢はぼんやりと思う。

知性強化動物のアイデアは誰でも思いつけたかもしれない。神々のテクノロジーの助けを借りてそれを実現することもできたかもしれない。しかし、全く新たな知的生命体を高度に武装させたうえで社会に受け入れさせる、などと言う離れ業が可能な男を、刀祢は他に知らなかった。恐らく父以外の誰も、この偉業を成し遂げることはできなかったはずだ。各国で誕生した他の知性強化動物たちも愛情に包まれて育っている。それは九尾という先行例があったからだ。

知性強化動物は、人間と同様の人権を持つ。唯一限定されているのは職業選択の自由だが、それは公共の福祉に利する観点から最小限度に、かつ慎重に加えられた制限だった。

「あ。あの辺にしよう、刀祢」

その言葉で我に返った刀祢は、はるなへと頷く。

三人は確保した場所から天を見上げた。

やがて時間となり、花火が打ちあがる。

美しい光景を、三人は最後まで見ていた。

都築博士が体調の異変を訴えたのは、帰ろうという段になってからのことだった。




—――西暦二〇二二年。知性強化動物が誕生して二年、都築博士が亡くなる前年の出来事。

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