適応は不健康

「人間がビタミンCを体内で作れないのは、果物を食べ過ぎたせいなんだぞ」


【埼玉県 航空公園駅】


「父さん、運動不足だよね」

「私が運動不足なんじゃない。人間の体に必要な運動量が多すぎるんだ」

駅の改札前だった。

家からすぐの場所である。のだが、すでに都築博士は汗だくだった。もう夏の盛りな事のほうが要因としては大きいだろうが。

「そうなの?」

「ほんの二百万年前までは、人類も食っちゃ寝の生活を送っていたんだ。狩猟採集生活にシフトしたのは直立二足歩行を始めてからだが、その僅かな期間じゃ怠惰な生活習慣を変えるには至らなかった」

「わずかかなあ」

刀弥は首を傾げた。いつも思うが、父の時間感覚はどこかおかしい。いや、生物学者全般が、か。

「わずかだとも。

元々人類は、森林でのんびりと果実主体の食事をとっていた。植物性の栄養源は動物性の栄養源より入手しやすい。逃げないからな。だから人類の祖先は今より長いこと寝て、ずっと休んでいたと考えられている」

「ちょっとうらやましいかも」

「私もだ。

人類が体内でビタミンCを合成出来なくなったのもこの時期だと考えられている。果物には豊富なビタミンが含まれているから、作る必要がなくなってしまったんだ。余計な機能は生物にとってコストだからな。退化してなくなってしまった。おかげで人類は壊血病や脚気と戦う羽目になったんだ。ビタミンCを取り続けないと死んでしまうわけだ」

「残ってたら良かったのに」

「都合良くは行かないものさ。

こういう適応はいろんな生物で起きる。例えばマグロは活発に動き続ける生活に適応した結果、鰓の筋肉が退化してしまった。常に泳ぎ続けてるから、筋肉がなくなっても呼吸できるわけだな。エネルギーの節約になる。その代償に、泳ぐのをやめたら窒息することにもなった」

「どこか発達するとどこか無くなるね」

「そうだな。適応なんてそんなもんさ。

人類は長いこと狩猟採集生活を送ってきたが、これは大変過酷な運動だ。人間は動き続けることに適応してきたんだよ。マグロのように。だから、運動していない人間は不健康になる。

それでも祖先の怠惰さが残ってなければ問題なかったろうが」

「もっと運動が苦じゃなきゃいいのに」

「まあ、現代文明じゃ運動能力なんてそんなにいらないが、急に必要になる場合もあるからな」

「まあね」

思い当たる節に、刀弥は頷いた。六年前には彼は、肉体の機能をフル活用して生き延びたのだ。一概に運動への適応がいらない、とも言い切れなかった。

「今我々が、この猛暑の中立っていられるのも運動への適応のおかげだよ。汗だな。

人間の体温調節機能は、哺乳類の中でもずば抜けている。長時間動き続けることができるんだ」

「汗が気持ち悪くなければいいのにね」

「それもコストだな。

さて。そろそろかな」

電車が到着する。

車内から改札へと現れた異相の一団。夏休みで里帰りしてきた“九尾”らへと、刀弥は手を振った。

「おかえり。みんな」

それに気付いた知性強化動物たちは思い思いの挨拶を返し、そしてはるなは微笑んだ。

「ただいま、刀弥」




―――西暦二〇二二年。都築博士の体調が急変するしばらく前、亡くなる前年の出来事。

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