カエサルとブルータス

「ドーパミンは脳の報酬系という経済の通貨だ。愛も。友情も。信頼も、すべての価値判断は一元化される。だからそれを支配することは、人間を支配することに等しい」


【カナダ 第五回神経工学シンポジウム】


「動機づけを司る脳の中核に位置するのがドーパミン作動性のニューロンだ。これが機能しなくなれば震えが出たり、行動を起こすことが難しくなる。症状が進めばあらゆる活動が一切楽しく感じられなくなり、最後には反応が一切失われさえする。

逆に正常なドーパミン・ニューロンは報酬の多寡に応じてドーパミンの放出量を変化させ、脳の活動をコントロールする。快感が生じたなら脳へドーパミンを放出させ、報酬が少なければ活動を低下させるわけだ。いわば脳内の快・不快を司る通貨がドーパミンであると言っていいだろう。

時に人間の脳は、判断をこの通貨に一元化する。

例えばカエサルを裏切るブルータスについて考えてみるといい。この共和制ローマ末期の人物は、カエサルの腹心であり古い友人だった。裏切りの際には考慮すべき何百という項目があったはずだ。けれどこれらはひとつの単位に一元化されて判断され、最後にはカエサルはこう言う羽目になったわけだ。『お前もかブルータス』と。

このことから分かるように、人間の心を支配するならドーパミンを操るのはいい方法だ」

ウィリアム・ゴールドマンは会場内を見回した。遺伝子戦争以降、科学のあらゆる分野は目覚ましい発展を遂げている。先年には純人類製の商用核融合炉が稼働を開始したし、コンピュータの性能は戦前ともはや比較にならない。宇宙開発も順調だ。それらの中でも、生命工学は今最も進展著しい分野の一つだった。

「神々は、人間を支配するために複数の思考制御の手法を開発した。ドーパミン報酬系の改変もその一つだ。脳へ組み込まれたマイクロマシン群を通じてドーパミンの放出量をコントロールし、脳へ誤学習させる。それは依存性の薬物にも似ている。

薬物の場合はドーパミン報酬系を乗っ取り、その物質の摂取が最重要目的だと脳に思い込ませ、すぐに薬物を摂取しなければ離脱症状に圧倒される。薬物を手に入れるために人生を無茶苦茶にしてしまうわけだ。薬物摂取をやめても脳は報酬系が変化してしまい、回復は困難になる。

これと同様のことをマイクロマシン群は行う」

ここまで一気にしゃべったゴールドマンは息を整えた。

人類側神格は、工業製品としてみれば欠陥品以外の何物でもない。制御できない兵器に存在意義などなかった。だから、先の戦争中盤以降。神々によって新規生産された神格の大半は、大きく改良されていた。思考制御の信頼性が高まっていたのだ。

あるいは、ごく少数だが根本的に異なる思考制御手段を用いていたものもある。今回のテーマはそれだった。

「すべての脊椎動物には大脳基底核が存在し、内部のドーパミン・ニューロンは相関学習と呼ばれる学習を実現する。いわゆるパブロフの犬と呼ばれる現象が好例だろう。ベルの音のような感覚刺激の直後に食べ物を与えれば犬は唾液を出すが、これを繰り返せば感覚刺激だけで唾液が出るようになる。これは自然界では因果性が重要な原理だからだ。報酬は、その直前に受けた刺激と関連性が高い。つまりこれらを結びつけた学習は大抵の場合、子孫を残せる可能性を高める。

故に様々な生物が同様の学習を行う。

神々が一部の神格に施した処置は、命令に従う場合に報酬が与えられ、逆らえば不快感。すなわち負の報酬が与えられるというものだった。彼ら彼女らは、自らの意志を残したまま神々の奴隷とされていた事になる。ドーパミンは無意識に働くため、抵抗するのは難しい。神格による反乱の抑制という意味では効果的な処置と言えるだろう」

ゴールドマンが初めてこの事例を知ったのは戦争中だった。当時彼は人類側神格“ニケ”をサポートする科学スタッフの一人であり、故に神々のテクノロジー研究の最前線にいた一人でもあった。

だから許せなかった。生命倫理を堂々と踏みにじる神々を。もちろん、その高度な科学力に魅力されなかったと言えば嘘になるが。

「現状、このような思考制御を受けた神格を救う事は不可能だ。彼らはそのものが強力な兵器であり、無力化するには殺すしかない。治療法を確立したとしても、活用される機会は非常に限られるだろう。しかしそれでも、この技術を我々が理解することには意義がある。

いずれ来るかもしれない、神々の再来に備えるために」

やがて講演は終わり、ゴールドマンは退出した。この日は他にも様々なテクノロジーについての情報交換がおこなわれ、議論が交わされた。



―――西暦二〇二二年、カナダにて。ドーパミン報酬系に手を加えられた神格への治療技術が確立する三年前、はるなが“蛇の女王”と対決する三十年前の出来事。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る