尻尾と悪魔とマックスウェル

「刀祢ぁ!こっちだよお!」


【所沢航空記念公園 池の周辺】


尻尾が、ゆらゆらと揺れていた。

携帯用の顕微鏡を片手に周囲を調べて回っているのは小柄な女の子。野外活動に適したハーフパンツと上衣を身に着けた姿はわんぱく小僧と言った塩梅であるが、全身に毛が生え獣相を持ち、尻尾をはやしたわんぱく小僧は今のところ地球上に存在しない。将来的には存在しうるかもしれないが。現状存在する知性強化動物は皆雌である。

はるなだった。

土曜日の午後のことである。

時折通行人がもの珍しそうにはるなへと視線を向けてくるが、大きな騒ぎになってはいないのは地元住民への説明会が何度も行われた成果だろう。それでもスマートフォンのカメラを向けてくる輩に対しては、私服の警備担当者がやんわりとお断りを入れている。

刀祢と初めて会った頃より一回り大きくなった知性強化動物は、都築親子が歩いてくるのを確認すると池の方へ走っていった。

「元気だねえ」

「子供の体力は無限大だからな」

「だからお酒は控えてって言ってるのに」

父の言に刀祢は苦笑。40歳になろうというこの天才科学者は日頃の不摂生のせいもあってか体力がない。にもかかわらず出張と研究、各方面への調整、政府に対する各種の助言などで激務の日々をこなしているのだから大したものではあるのだが。

「無限大と言えば」

「うん?」

「ねえ。第二種永久機関ってどうやって作るの?無限にエネルギーを出す機械は作れない、って小さいころ聞いた覚えがあるよ」

「ああ。ほんとは小柴さんに聞いた方がいいんだがな。あの人は情報熱力学が専門だから。父さんはそっちは専門じゃないんで自分の分野に関係のある範囲の説明しかできない。それでいいか?」

「いいよ」

「第二種永久機関を考えるにはまず、熱運動について理解しないといけない。

原子や分子は常に動いている。振動しているんだ。こいつが熱エネルギーの正体だな。高温の方が早く、低温ならゆっくりだ。

今、二つに仕切られた同じ温度の部屋の中に、早い分子とゆっくりな分子が閉じ込められている状態を考えよう。次に、こいつを監視している小さな悪魔を用意する。マックスウェルの悪魔という名前がついてるが、宗教的な存在ではなく仮想的な実験装置だ。こいつは早い分子が飛んできた時だけ二つの部屋を遮る窓を開ける。ゆっくりな分子が来たときは通さないわけだな。これを続けていくと片方の部屋に早い分子だけが閉じ込められることになる。ふたつの部屋の間に温度の勾配ができるわけだ。

ここまではいいか?」

「うん」

「熱力学的には温度に差があれば仕事をさせる事ができる。エネルギーを0から作り出したわけだな。これが第二種永久機関。けれどこれは熱力学の第二法則に反している。何も消費していないのに使えるエネルギーが増えるからね。

これについては長いこと論争があったんだが、ついに解決策が見つかった。マクスウェルの悪魔は情報を扱うのにエネルギーを使い、そのエネルギーを使って温度勾配を作り出していたことが分かったんだ」

「情報?」

「そう。情報だ。早い分子とゆっくりな分子を区別していた点がポイントだな。見分けるためにこれらを記憶しておく必要がある。次にマックスウェルの悪魔に仕事をさせるにはこの記憶を消さないといけないが、その時エネルギーを消費するんだ。だから永久機関ではないことになる。これはいろんな形態がある。階段を使う方法。階段の上に分子を乗せておけば、そのうち分子は階段を上るだろう。熱でゆらいでいるからね。反対方向に壁を立ててやれば落ちる心配はない。あるいは、一方向だけに回転する羽根を分子の飛び回る中に置いてやるだけでもいい。ブラウン・ラチェットという細胞内のポンプ機構がこれを採用してる。マックスウェルの悪魔は生物の細胞内にいるのさ。熱の揺らぎはマクロ的な視点ではノイズだが、小さいスケールだといろんな機構を制御するのに不可欠だ。揺らぎ無しには生物の分子モーターも動かない。生物にはマックスウェルの悪魔は必要なんだ。まあこのままじゃ、第二種永久機関としては使えないんだが。これらの仕組みから無限にエネルギーをくみ出すにはさらに一工夫必要だ。

神々ですら第二種永久機関を神格でしか用いていないのはその辺が理由だろうな。ことは熱力学だけじゃあない。量子論や生命情報学なんかが関わってくる。生体を使わないなら核融合炉や対消滅炉の方が安上がりなんだ」

「なるほどなあ」

「まあ、神格の場合はもっと働き方が極端だ。分子の熱運動を一方向に束ねてやれば、物体はそっちの方向へと飛び出していく。流体でできた300トンの槍をマッハ30で投射したなんて記録もあるくらいだからな。巨神が噴射もなしに浮いてるのもこれが理由だ」

「あれ。でも作用反作用の法則は?」

「ところがないんだなこれが。熱運動は本来ランダムだが、一方向に揃う可能性は0じゃない。自然に起きるにはこの宇宙の寿命より遥かに長いこと待たなければだめだろうけどね。神格は自分の巨神の内側に限っては、こいつを意図的に起こせる。無数に存在する可能性の中で、最初から一方向に熱運動が揃っている世界を選択するわけだ。この辺の説明には多世界解釈やより高度な議論が必要になってくるんだが、ちょっと専門的になり過ぎるな。

この辺でいいかい?」

「うん。分かった」

その時だった。泥まみれになったはるなが、満面の笑みでこちらに走ってきたのは。

「ねえ見てみてー!!」

どうやら池で何か発見したらしい。

ふたりの男は速足になりながら、そちらに向かっていった。




—――西暦二〇二〇年。知性強化動物誕生から半年。人類製神格の兵装試験が終了する二か月前。

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