文明はビールの子

「台所は最も身近な、バイオテクノロジーの実験室なんだぞ」


【埼玉県 都築家近くのスーパー】


「父さん大丈夫なの。はるなにお酒とか……」

「私にいい考えがある。大丈夫だ。問題ない」

ふたりの前でカートを押しているのは尻尾を振っているはるな。小さな体で手を伸ばしながらでは大変なはずだが、それを感じさせないうきうき感が伝わってくる。

買い出しであった。

きっかけははるなが「お酒のみたい!」と言い、都築博士が「よし。じゃあスーパーに行こう」と言い出したことである。

いわゆるスーパーマーケットでは生花、野菜、魚、肉、乳製品、お惣菜……という順でコの字型に囲まれた中に調味料、乾燥食品、ペットボトルやジュース類、アイスクリーム、お菓子コーナー、酒類といった感じで並んでいることが多い(例外はある)が、都築親子+1名は逆順に進んでいた。すなわち真っ先に酒類コーナーへ向かったのである。

「ほら。はるなでも飲めるお酒だ」

「甘酒じゃない」

都築博士が手に取ったのは黄色いパックに爽やか風味と書かれた甘酒の紙パックである。牛乳パックくらいの内容量はありそうだ。

「お酒ーお酒ー」

「変なのに興味持っちゃったなあ。いいのこれ?」

「健全な知的好奇心だよ。変に隠す方がよくない。近いうちにタバコや性行為についても教える予定だ」

「……できるの?」

さすがにギョッとして、刀弥は尋ねた。

「生殖機能はあるが、同種の雄がいないから実質的に不可能だな。その辺にもきちんと理由はあるんだが、こんな場所でする話でもないからな」

「そりゃそうだね」

調理酒を手に取り、カートに入れる刀弥。

「バイオテクノロジーは、人類最古のテクノロジーの一つだ。シュメール人が紀元前八千年頃かな。水に浸して発芽させた大麦や小麦を醸造してアルコール飲料にしたんだ。栄養価が高く保存性のある、ね」

「食べ物の代わりってこと」

「ああ。保存食品そのものだよ。神々に略奪されてしまったが、かつてルーブル美術館には紀元前三千年頃のシュメール人の様子を描いた粘土板があった。脱穀した小麦をパンにしてたんだな。発芽した穀物粒を軽く焼いて乾燥させてから粉々にして、水を加えてビールパンにする。そいつを水に溶いて密閉した粘土の器に保存すると発酵が始まるというわけだ。

他に買っておくものはあるか?」

「醤油がきれかかってた。酢も買っといたほうがいいかな。あとチーズとヨーグルトも」

「先にそっちだな。

発酵は酸素を利用しない。いわゆる嫌気的な過程でジュースをアルコールに変える。

後に同じ地域のバビロン人が作っていたビールは多少酸味があった。乳酸発酵のせいだ」

「乳酸菌のあれ?」

「それだ。

乳酸発酵は役に立つ。多くの微生物は酸性環境では生きられないから、保存に最適だったんだな。

あ、はるな。そこのをとってくれ」

「はーい」

「アルコールは糖質が発酵した、酵母の最終代謝産物だが、こいつが2、3%ほどでも細菌の細胞膜の透過性が変化する。おかげで増殖を抑えられるわけだ。メソポタミアのあった中東地域は暑い気候だったから、細菌の増殖が抑えられることで衛生的な飲み物が得られることはまさしく発展の必須条件だったと言っていい。昔の人は不衛生な水の代わりにビールやワインや酢を飲んでたんだ。

文明はビールに育てられたんだよ。

あれ。うちで使ってるのどれだったっけか」

「これだよ」

刀弥は、醤油を手に取った。次は酢だ。

「醤油や味噌だって発酵の産物だ。緑茶もそうだな。発酵は長期保存に適し、消化がよくなり香りと味が良くなる。活用され始めたのはほとんどの文明で、ごく初期からだ。人類は何千年もその正体を知らずに使ってきたが、やがて酵素が発見され、化学的構造が解明された。色んな技術が派生した。

その、最先端が―――」

都築博士が視線を向けた先。

るんるんとカートを押し、お菓子コーナーに向かうはるながこっちを見た。

「あの子というわけだ」




―――西暦二〇二〇年。知性強化動物が誕生して七ヶ月目、ルーブル美術館が再建された年の出来事。

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