意識は体の王様ではない

「私の脳にどこか、おかしなところはありましたか?」


【埼玉県 防衛医科大学校】


都築博士は、志織の言に苦笑した。

「撮ったデータの確認はこれからだ。

微糖でよかったよね?」

「ありがとうございます」

身体検査を終えたばかりの志織は、缶コーヒーを受け取るとプルタブを起こす。

「不安かい?」

「はい」

志織の返答に、都築博士は頷いた。無理もない。この少女は神々によって脳をいじくりまわされ、別人格を植え付けられた上に、神格の管理無しでは数日と生きられない、著しくバランスを欠いた体へと改造されたのだから。

そのうえどうして神格の支配から逃れられたのか、その正確なメカニズムはまだ完全には判明してはいないのだった。幾つかの仮説はあるとはいえ。

定期的に行われる今日のような身体検査は、その謎を解き明かすという目的もある。

「今でも時々夢に見るんです。わたしがわたしじゃない意思に突き動かされて。私自身、それを見ているしかなくて。

はっきりと覚えてます。わたしの目の前で友達が死ぬところを。神々に肉体を奪われた。神の人格をダウンロードされ、その心の全てが上書きされて消されてしまったんです。わたしは、それを手伝いすらした。

先生。わたしはどうなっているんですか。あの時、わたしは何をしていたんですか?分からない。わたしには分からないんです」

「君の助けになるかは分からないが」

仮説だと前置きし、都築博士は続けた。

「意識は日常の活動を支配してはいない。例えば通学路。慣れた道であれば、ぼーっとしていても気が付けば家に帰りついている、ということはよくある。あるいはもっと単純に、缶コーヒーのプルタブを開ける、みたいな動作でもいい。人間はいちいち考えて行わない。慣れた動作というのは、その動きのパターン全体が脳内のニューロンの結合として出来上がっているからだ。私たちはその複雑なやり取りを認識してすらいない。無意識だな。意識の出番はだから、慣れないこと。新しいことに挑戦したり、突発的な事態に対処しなければならない時に、判断を下すことだ。

当時の君は、この無意識の監督者でなくなっていた。友人を救う、という判断を下すべき君の意識は、肉体から隔離されていたんだ」

ここまで喋った都築博士は、自らもコーヒーに口を付けた。うまい。ブラックは頭をすっきりさせてくれる。

「この問題を理解するには、人間の内部対立について学ぶ必要がある」

「内部対立?」

「ああ。

ここでトロッコのジレンマという思考実験を例にとってみよう。トロッコが制御不能になっていて、このままでは作業員4人をひき殺す。しかし目の前にいる大柄な男性を突き落とせば、トロッコはそれにぶつかって脱線するだろう。1人の犠牲で済むわけだ。男性を突き落とす?それとも作業員4人を見殺しにする?

この判断を下す時、脳の中では異なる二つの領域の対立が生じている。理性は4人を救う方が合理的だというが、感情は1人を自らの手で殺すのは間違いだと訴える。

このような対立は、脳の中でいつも起こっている。たくさんのニューロンが絡み合い、過去の記憶を参照し、接続を絶え間なく変えて活性化する。常に複数の選択肢が現れるんだ。

これが最も如実に表れるのは、右脳と左脳。ふたつの脳を切り離した時だな」

残りのコーヒーを口に流し込もうとしてむせた。まだ年というほどでもないのだが。不摂生が祟っているらしい。

気を取り直し、都築博士は語るのを続ける。

「これはてんかんの治療の際に行われる処置のひとつだ。分離された脳は別々に動くから、このような脳内対立が行動に現れるときがあるんだな。右手でペットボトルを取ろうとするのを左手が邪魔したりね。

かつて、君の脳もふたつに分断された。体の制御権を持ち、神格の一部として思考する君の分身。そして、本来の君自身。

その状況は君に多大なストレスを与えた。脳細胞に損傷を与えたんだ。神格の与える驚異的な治癒能力はそれを癒やし、結果として脳は回復した。神格に支配された君ではなく、志織さん。本来の自由な君自身に」

「……」

「ストレスを感じたということは、かつて神格として体験した記憶を自分のものとして勘違いした、と言うわけではない。君を解放したのは、他でもない君自身の怒り。悲しみ。友達への想い。そう言った強い感情だ。

私はそう信じるよ。仮説の段階で断言するのも、科学者としてはよくないんだがね」

「ありがとう、ございます」

「なに。こんな話でいいなら、幾らでも相手になるよ」

都築博士は安堵した。志織の表情がほんの少しだけ、明るくなったから。

志織が再度言葉を発したのは、自らの缶コーヒーを飲み終えた後のことだった。

「でも、考えてみたら凄いですよね。私の脳は無茶苦茶に作り変えられてるはずなのに、元通りになるなんて」

「まあこう言うのもなんだが、脳みそなんて大雑把なものだからね」

「大雑把、ですか」

「可塑性と言い換えてもいい。驚異的な調整能力を備えているんだ。いかなる環境。いかなる状況。いかなる土地であっても私達が適応出来るのもこの能力のおかげだ。

そして脳の可塑性が働くのは外界に対してだけではない。私達の体内に対しても働く。

例えば感覚代行。視覚情報が通常とは異なるやり方で送り込まれても、脳は“見る”事ができる。という事実は1969年にはすでに知られていた。実験内容はこうだ。目の見えない人を改造した椅子に座らせる。この椅子にはカメラからの映像に応じて、腰の部分のピストンを動かす。映像をピストンのパターンに変換したわけだな。訓練のあと、丸いものをカメラの前に置けば丸く。顔を置けば顔として、被験者は認識できるようになったそうだよ。

最近普及しつつある埋め込み式の感覚器なんかも原理は同じだ。人工内耳なら電極で聴覚神経に電気パルスを伝えるし、人工網膜はカメラの映像を電気活動に置き換えて伝える。これらは体に埋め込んですぐには見聞きできるようにはならない。脳の訓練が必要だ。脳に供給される信号は馴染みのない、いわば外国語だからね。けれど、その解釈の仕方を覚えさえすれば感覚器は蘇る。人工の感覚器で見聞きできるようになるんだ」

缶コーヒーの中身を飲み干すと、都築博士は続けた。

「もっと極端な場合なら、脳の半分を切除しても適応出来た例がある。キャメロン・モットという少女は4歳の時、ひどい発作を起こすようになった。ラスムッセン脳炎というまれな病気でね。このままではやがて死に至ることから、外科手術で脳の半分が完全に取り除かれた。2007年のことだ。

結果は成功だった。成長したキャメロンは体の片側が弱い以外は驚くほどに健康で、知能にも全く問題はない。スポーツだってできる。

もちろん、切り取られた脳が不要だったわけじゃあない。残った脳が失われた分の肩代わりをするために配線をつなぎ変えたんだ。

脳は機械じゃない。自分自身を組み替える。新しいことを学ぶたびに変わっていくんだ。

君たちの脳だってそうだ。神々が君たちの心身に加えた操作は、そのありようを根本的に変えてしまうほどのものだった。けれど君たちはその特異な状況に。人類史上類を見ないほどの逆境にも適応したんだ」

語り終えると、都築博士は空き缶をゴミ箱に入れた。

「さあ。行こう。九尾たちが待ってる。人類みんなの希望になる、子供たちが」

「はい」



—――西暦二〇二〇年。人類側神格に対する思考制御破綻のメカニズムが解明される1年前。パラリンピックに全身義体者の級が登場する16年前の出来事。

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