手は何のためにある?

「本当に……人間みたいでしたね……」


【埼玉県 防衛医科大学校 自動販売機前】


志織しおりの言に、都築博士は頷いた。

「参考までに、どこを見てそう思ったのか教えてくれるかな」

「そうですね。手の構造が、人間そっくりでした」

「なるほど。いい着眼点だ」

都築博士は先ほどの様子を思い浮かべた。九尾―――生まれたばかりで毛も生えていない知性強化動物の赤ん坊を看護師より受け取り、おっかなびっくり抱きかかえる、志織の姿を。この娘の経歴を知る者からすれば、そのギャップに驚かされるに違いない。

その気になれば、関東平野一円を焼き尽くせるほどの力を彼女は持っていたから。

「手は重要だ。知っているかな?赤ん坊がベビーベッドを蹴飛ばしたり、腕を振り回したり、指をなめたりするのは視覚の発達にとても重要な影響を及ぼしていることを」

「ええ。知識としては」

「実感は湧かない?」

「はい。自分で勉強して得たものじゃ、ありませんから」

「なるほど。では私に説明してみてもらえるかな。頭の中で整理すれば、理解も深まるかもしれない。

あ、ブラックでいい?」

「微糖でお願いします」

がこんっ

自販機から出てきた缶コーヒーを都築博士より受け取り、志織は少しだけ思案した。

「……視覚は目だけで成立しているわけじゃあありません。視神経が受け止めた光子を解釈するのは脳ですが、そのためには訓練が必要です。他の行動や感覚から得られた結果のような情報と照合して初めて、脳は視覚で得られたものの意味を知ることができる」

「いいぞ。その調子」

「情報の統合は脳の重要な機能です。一例を挙げるなら、短距離走の選手はスターターピストルの音を聞いてから動いていますが、これには0・2秒のロスがあります。目ではより早くその様子を捕えているのにです。これは、聴覚と視覚が同じタイミングで一つの出来事を捕えようと情報を統合していることを意味します。脳の不思議な作用は他にもあります。危機的状況では時間がゆっくり流れるように感じる事がありますが、実際にはゆっくりではありません。もしそうなら音が引き延ばされて聞こえるはずですが、そんなことはないんです。脳がその状況を覚えるため。のちに同様の危険な状況に遭ってもうまく対処できるよう、脳が通常より濃密に情報を獲得しよう、いわばメモを取ろうとして起きることです。人間の感覚は情報量の濃淡を理解できないので、高密度な記憶を後で思い出した時に「ゆっくり」と区別がつかなくなるわけですね。人間の脳は、比較対象がないとこんなに簡単に騙されちゃう」

そこで志織はコーヒーをごくり。

「手に話を戻します。

人間の脳の機能のかなりの部分は手のために割り振られています。人体で占める実際の割合よりも相当に多く。その中でも親指の役割は特に大きい。

それは人間が外界へ働きかけるのに用いられるのが、まず手だからです。物理的な行動のほとんどに手が関わっています。だから脳の機能の中でも、手を扱う部分が相対的に発達していく。人間に手は必要なんです」

「素晴らしい。受講料を取って講義ができるよ」

「先生にそうおっしゃっていただけると、恐縮です……」

志織は縮こまった。知性強化動物というプロジェクトを実現するために奔走するスタッフは多数いる———他ならぬ志織もその中心人物のひとり———が、そのアイデアを最初に発表し、自衛隊と政界に働きかけ、基礎理論を確立する中心となって働いていたのは眼前の男。都築博士であったから。彼がいなければ、プロジェクトの立ち上げは何年も遅れていたはずだ。

現代を代表する天才科学者。そう言っていいだろう。

「脳には無限の可能性がある。志織さん。君たち、二十三人が証明したように」

「はい」

「今度は私が。―――いや、人類みんながそれを証明する番だ。だから、九尾たちの行く末を見守ってあげて欲しい。彼女らは、プロジェクトが成功すれば半永久的に生きる。それに付き添ってあげられるのは君たちだけだ」

「ええ。そのつもりです」

「ありがとう」




—――都築博士と焔光院志織の会話。西暦二〇二〇年。知性強化動物が誕生したその日。人類製神格完成の二年前の出来事。

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