おまえは誰だ
自宅に撤退し、やはりコンビニ飯と缶チューハイで腹を満たした。
繁華街を歩けば少しは気もまぎれたかもしれない。しかし、ここのところ寝不足のぼくには厳しい選択肢だった。
判断力が落ちている。自分が何を考えているのかまとまらない。気持ちもささくれている。
とにかく、あの化け物に抗うために余裕が、体力が必要だ。それだけは確かだった。
スマートフォンで動画を垂れ流し、他人の声で室内を満たしたまま風呂に入り食事を済ませた。
アルコールが体に巡れば、昨日のように眠気がやってくる。そう祈りながら五本目の缶チューハイを煽っていた。
やがて電話が鳴った。非通知設定だ。緊急の連絡である可能性はゼロではない。しかし、ぼくは出なかった。
インターホンも鳴った。これも無視した。
ベランダの窓が叩かれ、携帯電話で流していた動画は停止したが、ぼくは何事もなかったように過ごした。
そして、リビングの端に三脚を立てて、ハンディカメラをセットする。
ぼくに近づくものがあれば、暗視モードが捉えるはずだ。
「……金にしてやる、おまえらなんか。画面の向こう側に追いやってやる」
呟きながらチェックとセッティングを終え、ぼくは早々に横になった。
周囲からはまだ生活や交通の音が聞こえてくる。
良く知っている音の中に混ざる異音から意識を背けながら、ただ静かに眠りに落ちることを祈り続けた。
ぼくが直面しているのは、もはや恐怖ではない。危機だ。
存在するはずのなかった化け物が振るう、理不尽で不愉快な暴力がやってくる。
そんな警戒心のせいか今宵も意識は明瞭で、酔いは浅かった。
はっきりと、わかった。
いる。
今日の除霊で感じた気配が。死臭が。
室内に、いる。
薄目を開けると視界の端、薄暗闇の中、普段は見覚えのないシルエットが佇んでいる。灰色に腐ったの足が一対、だらしなくぶら下がっていた。大きさ、太さからして男のものだろう。
玄関とリビングを繋ぐ廊下のあたりだ。
たまらずぼくは目を閉じた。
遅れて、臭いが濃くなる。
遠く、サイレンのように「あー、あー」と誰かの声で唸っている。
毛穴という毛穴から脂汗が吹き出し、全身の筋肉は硬直していた。
それは突然に、かすれた、ぼくの声で呟いた。
「どうせ死にますよ」
もはや断言だった。
ぶらさがった足は廊下だったはずだが、声は頭の上から降ってきた。
ばくん、と心臓がひときわ大きく打ち鳴り、身体がすくんだ。
除霊のとき、東雲先生ならなんとかしてくれるだろうと、考えることを止めていた。同じ境遇の中西や美和もいた。彼らの存在でさえ、ぼくには心強かったのだ。
だが、いままさにぼくは無防備のまま化け物の前に寝転んでいる。
まるで土台に乗せられた供物だ。
これまでどおり、知らぬふりをするしかない。
「どうせ死にますよ」
次第に声の出どころが増えていく。
こそこそと話している。
わけのわからない言葉さえ交えて、息継ぎさえもせず、早口に唱えている。
いっぱい、いる。
きっとこれは、噂を信じて『自殺アパート』の糧にされた人々と、呪われて自殺を強いられた人々の声だ。
三〇二号室で見た靴の数の、その倍はいる。ぼくの部屋はいないはずの誰かの気配で溢れかえっていた。
唯一の安全圏であった自分の家が、他人の――人ですらない禍々しいものに侵食されていくなんて。
ここがこいつらの存在でいっぱいになってしまうのなら、ぼくはどこに存在すればいいんだ。
「こっちですよ」
ぼくはつるまないぞ。おまえらなんかと。
おまえらみんな他人だ。捏造物だ。境界線の向こう側だ。
「境界線はありませんありません」
身体が勝手にこわばり、金縛りのように動けなくなる。
そろそろという布ずれの音、誰かの気配がぼくのベッドのすぐ横に集まっていた。
まるで狭い範囲に何十人もの人間が固まって立っている、そんな異様な存在感を浴びせかけられる。
嘲笑うようなヒソヒソ声が重なる。
ぼくをどう殺すかの相談をしている。
そうだ、燈子のことを考えよう。
昨晩のように。楽しい記憶はを退け――
「無駄ですよ、吉瀬さん」
ぼくはすんでのところで目を開かなかった。
「いじめなんです。手を汚したくありません。罪悪感さえ感じたくありません。勝手に死んでほしいです。だからゆっくり苦しめます」
燈子の声。
さらりと顔をなでる絹のような感触。
「早くしたほうがいいですよ」
その声をやめろ。
とてつもなく正しく、甘美な提案に聞こえるから。
「どうせいつか死ぬんですよ」
そんなことは、わかってる。
痛くて気持ち悪くなるくらい。
*
翌朝、目覚めたのは朝の五時。
カンカンカンカン……と踏切の音が鳴りだし、ぼくが身をよじりながら目と覚ます。
警戒しながらアルコールの残る身体でベッドから起き上がり、重い足取りでカメラに近づいた。
おぼつかない手元でハンディカメラを取り外す。
録画を終了し、最新のファイルを再生させた。
映し出している範囲は、廊下の入り口とリビング全体。ぼくはカメラをセットして横になる。暗視モードはいっこうに異変を映し出さない。
早送りにしたが、窓から光が射してきた。暗視モードが自動で通常モードに切り替わる。
やがて――。
カンカンカンカン……と踏切の音が鳴りだし、ぼくが身をよじりながら目と覚ます。
げっそりとした顔つきのぼくがベッドから起き上がり、重い足取りでカメラに近づいた。
がさごそとハンディカメラを取り外す。
ぐるんぐるんと視点が回り、ボッと奇妙な音が鳴る。どさっとカメラが床に落ちた。
「…………え」
部屋の中央に設置したテーブルのあたりだろう。
ぼくの足が、宙にぶら下がっていた。脱力した両足はゆっくりと左右に揺れていた。
「……おまえは誰だ」
カーテンの隙間から入る日差しを何かが――何者かが遮り、カメラを持ちあげる。
映像は、そこで終わっていた。
「…………おまえは誰だ!」
ここで首を吊ったのは誰なんだ。
カメラを拾い上げたのは誰なんだ。
なら、いまここにいるぼくは誰だ。
――全部、ぼくではないぼくなのでは? いまここにいるぼくすらも。
「……あ、あぁぁあ……うわああああっ! おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ、おまえは誰だ!」
絶叫した。
カメラを叩き割ろうと振上げたが、すんでのところでそれはベッドの上に着弾した。
ぼくは台所でほとんど使ったことのない包丁を取り出し、刃を左の手のひらに押し当てて引いた。
思いのほかばっさりと切れて、すぐに赤い液体と痛みが滲んだ。
「生きてる、生きてる……ぼくは、生きてる! ぼくは、ここに生きて、いる! いる!」
なんの証明にもならないが、左手を握りしめ、右手にカメラを抱えてベッドで身を小さくする。
泣きながら屁理屈クソ理屈を総動員したが、滅茶苦茶に踏み荒らされた境界線は、修繕不可能だった。
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