《DAY6 7月20日》 急降下

迷える羊


 あのあと、したたか吐いて、廊下で寝て、目覚めたら、昼の十二時を過ぎていた。

 部屋の中にはきらきらと爽やかに輝く夏の日差しが射し込んでいる。遅刻だ。


 冷たい床から飛び起きると、別の冷や汗が身体に纏わりついていた。

 いまだもってアルコールが残っている。胃がひりひりと焼けていた。神経が張り詰めていて休めた気がしない。疲労はいつも以上に重かった。

 慌ててスマートフォンを確認してみたが、中西からの着信はない。


 なにかあったのではないか。

 あるいは、中西も遅刻か。

 ぼくをボコボコにするのを待っているのか。

 いずれにせよ、なにか起こることを覚悟しながら電車に乗り込んだ。


 中西はやる気だ。

 ――バケモンに命もってかれるくらいなら、自分でつこたるわ。

 たしかに、奪われるくらいなら、自分で使い潰したほうがマシだ。その啖呵にぼくは感化されていた。

 電車の窓に映った自分の顔色は悪かったが、いままでよりも遥かに意思を感じる表情だった。


 暴力か暴言を覚悟しながら四階フロアに踏み込む。

 すると、いつもならぼくのことを珍獣扱いする本社の人たちがぼくを見るなりさっさと己の仕事に視線を戻した。

 中西は相当荒れているのだろうか。

 腫れものにも触らないよそよそしい空気の中で、唯一芹沢が「おめでとう!」と声をかけてきた。

 聞き返すように首をかしげると、彼は意気揚々と言った様子で種明かしする。


「中西さん、辞めたって」


「え? は? 中西さんって中西栄吾さんですか……?」


 自分の口からは疑問符めいた音だけがいくつも飛び出した。

 頭が真っ白に、目の前は真っ暗になりかけた。

 腹を抱えてケタケタと笑う芹沢。この期に及んで、ぼくは見事おもちゃとして遊ばれているのだ。

 このままおちょくられていては話が進まない。


 中西は昨日、あれだけやる気になっていた。啖呵まできった。

 声を低くして「何かの間違いでは?」と聞き返すと、芹沢は外国人がやるように大袈裟に肩をすくめた。


「詳しい事情なんて俺が知っているはずないだろう。さっき上フロアに行ったらさ、丁度居合わせちゃって! 辞める辞めるって子どもみたいに大騒ぎして社長に辞表押し付けて帰ったよ。編集もできるからあと全部キミに任せるって」


 確かに、編集は一人でできる。昨日そんな話もした。

 だが、その話はそんな後ろ向きなマニュアル確認ではなかったはずだ。

 聞いてもいないのに芹沢がぺらぺらと続きを喋る。


「社長もいままでのが溜まってたんだろうね、もうカンカンのカンだよ。で、さっきメール回ってきたけど、中西組解散、中西プロジェクト凍結だって。奴隷解放おめでとう! 独立記念日だ!」


 大袈裟に言いながらウェハースの小袋を差し出し押し付けてくると「でも吉瀬くん、どこのチームにいくんだろうね。あれかな。やっぱクビかな」などと残酷な予想を残してフロアを出ていった。

 エントランスで会話声が華やぐ。芹沢は仲間とともに昼食でもとりにいくようだ。


 ぼくは一人、ウェハースの小袋を握りしめとぼとぼと倉庫に入り、定位置でうなだれていた。


 覚悟ができてノートパソコンを開き、社内メールを確認する。

 社長のアドレスから二通のメールが届いていた。


 一通目は社内共有アドレス宛てに、芹沢が喋り連ねたことが書いてあった。中西組解散、現行プロジェクトの凍結である。つまり『自殺アパート』は番組にならない。

 もう一通は、社長からぼく個人宛てのメールだった。社長はぼくの立場を同情しつつも、やんわりと自己都合退職を勧める内容だった。


 滅茶苦茶だ。

 化け物から逃れ、番組作りを成功させれば少しは未来が明るくなると思っていたのに。

 番組こそが、ぼくらの最終防衛ラインだったのに。

 まさか大将であるはずの中西に裏切られて、ぶっ壊されるとは……。


 どうして急に。

 いいや、きっと中西にも何か事情があるはずだ。

 情熱が、野心が、残っているはずだ。ぼくが奴隷根性でついてくると信じてくれているはずだ。


 自分を奮い立たせ、スマートフォンを操作する。履歴の中に並んだ中西の名前を適当にタップした。意外にも、長いコールのあとに応答があった。


「な――」


 中西さん、大丈夫ですか? と口にする前に遮られた。


『自分が一番大事に決まっとるやろが』


 電話の向こうからの叱りつける物言いに、ぼくは閉口した。

 その間に、中西は昨晩起こったことを話した。死んだはずの赤城がきたのだと。身の危険を感じたと。

 数日前に、ぼくもさすがに身の危険を感じて燈子に泣きついたときと同じような話だった。


 ぼくは、中西も同じような目にあっていて、それでもあの啖呵をきったのだと思っていたが、どうやら違っていたようだ。

 連中の侵攻具合は、ぼくと中西で異なっていた。中西のほうが遥かに軽度だった。だから、あんな軽口を叩けた。恐れていなかった。

 中西は昨晩やっと、自らの命が狙われていることを理解したのだ。


「番組はどうするんですか……。ぼく、まだデータ持ってますよ、やれますよ……!」


『おまえ、アホちゃうか。どう考えたって、かかわってええもんやないやろ。最強霊能力者、東雲大先生様の仰るとおりやわ。なんも知らんフリしとったほうがええ。おまえはアレや。命の危機っちゅうヤツで頭ハイになっとるだけやろ。冷静にモノ考えられんく――』


「伝説はどうしたんですか……!」


 たまらず、今度はぼくが中西の話を遮った。


「昨日きった啖呵はなんだったんですか!? ぼくに命賭けてやれって言ったの中西さんじゃないですか!」


『んなもん、いちいち覚えとらんわ』


「中西さんが都市伝説を作るっていうから、オカルトブームにするっていうから、だから――!」


『やかましいわ、寄生虫! やろうが辞めようが俺の勝手や! やりたいちゅうなら、一人でやれや! やりたなかったらおまえも辞めたらええんや! 辞表も俺が書かんといかんか? ああ? 偉そうなこというても、やっぱ寄生虫やな』


「それは……」


『そんにな、この話はもともと田邊が書いた記事やぞ! 俺ら死んだら、あいつの総取りや。バケモンけしかけて俺ら殺そうとした田邊様のシナリオ通りや! それともおまえ、今度は田邊にへいこらする気か? さすがは寄生虫様やな! プライドっちゅうもんあるなら、自分で決めてどうにかせえ!』


 通話が切られた。

 指が動かず、折り返すことができなかった。


 裏切られた。

 ぼくはこうも簡単に切り捨てられる存在だったというのか――いうのだ。

 そもそも、中西はぼくを仲間だなんて思っていない。ぼくはただの奴隷、会社から支給された道具だ。お荷物だ。寄生虫だ。

 その道具がどこかで勘違いを起こして、番組の成功だとか、オカルトブームの再来だとか、与えられた夢を見ていい気になって、あまつさえ命がけであの化け物を暴いて金にしようなんてとち狂ったことを考えはじめたに過ぎない。


「ふふ……ふふははは」


 まったく面白くないのに、肺から空気が零れる。

 笑っているような声が零れた。

 頭に血が上っていた。

 やけくそだった。

 だんだんと顔と目頭が熱くなる。


 ぼくは自身を奴隷で社畜で寄生虫だと言い聞かせながらも、宿主からはしごを外されるだなんて思ってもいなかったのだ。

 大嫌いな上司にさえ、一人にしてほしくないと思っていたのだ。

 恥ずかしい生き物だ。


 そのくせ、まだ死にたくはない。


 ぼくは誰にぶつけたらいいのかわからない感情を打ち捨てるように、ウェハースを――よく見れば賞味期限が一か月も切れていた――ゴミ箱に叩きつけ、会社を出た。


 行先は美和が入院した病院だ。

 美和の心配をしているわけではなかった。

 ぼくが考えていたのは、角守燈子と再会することだけだった。


 気持ちの悪いことに、ぼくは子どものように彼女の膝に縋りついて泣いて慰めもらうことに頭がいっぱいだった。理解してもらいたかった。ぼくの状況を理解してくれるのは、彼女だけだ。具体的な解決策など二の次だった。


 この期に及んで職務放棄な上に、心優しい女子大生に文字通り縋ろうというのは傲慢も惨めも過ぎていると気が付いたのは、病院に到着してすぐ。静かなリノリウムの床を歩いている途中だった。

 知的な薬品、暗澹たる病の臭を嗅ぎ、死の影と戦う病人や老人を見て、泣き縋る相手を探している情けない自分に気が付いたのだ。


 冷静になってみれば今度、燈子がここにいる確証が無いといまさらになって気がづき、さてどうしたものかと歩調を緩める。

 そんな迷子じみた不安を、黒三角の人形は打ち消した。

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