先輩


 あの後、まったく仕事が手につかなかった。

 正確には、手を付ける時間さえなかった。


 赤城の件で、ぼくたちのところにも刑事がきた。

 形式的な聴取だったが、ぼくは刑事たちに知っていることを洗いざらい喋った。もちろん心霊スポットだとか、呪われたとか、そのあたりも全部。出来ることなら一刻も早く犯人を捕まえてほしい、収録した映像も見てほしいとみっともなく訴えた。

 しかし、刑事たちは「結構です」「大変なお仕事で」「お疲れのようですね」と鼻で笑うだけだった。こんなにも事務的であっけないものかとぼくは落胆した。ぼくも死んだらこうして処理されるのだろう。

 ただし疲れているのは事実で、ぼくは睡眠不足からくる頭痛に耐え兼ね、夕方には仕事を持ち帰ることにした。

 中西はロケ当時の現場責任者ということもあり任意同行で警察署まで行っているので、文句を言う人間もいない。


 余談であるが、中西は「ニンドウか。面倒やけど警察には逆らえんわ」と慣れた様子だった。さすがというか、やっぱりというか。


 倉庫に戻ると、芹沢がぼくの定位置でハンディカメラを開いていた。

 以前にもあったが、こうして収録データを盗み見ては余計な口を挟んでくる。場合によっては編集中のパソコンデータをいじって、ぼくが大目玉を食らうことさえあった。自分の仕事に納得いっていない憂さ晴らしもあるのだろう。


 ぼくが注意するよりも早く、芹沢は大げさに手を叩いて「思い出した!」と嬉々としていた。


「島袋美和だ、懐かしい! 性格悪くて干されたんだっけ。こういうのがひでぇ目にあって泣き叫ぶの見たいんだよな。わかってんじゃん」


 本人に聞かせてやりたい言いぐさだ。二、三発は殴られるに違いない。

 もっとも、美和のアサイン理由は芹沢の言う通りだった。


「うわ、マジ? 汚ねえ! ゲロ吐いちゃったじゃん。おまえらのヤラセ、マジでエグいな。ははは……。でも俺、占い師ちゃんのほうが好みなんだよなあ。この子の収録まだ? いつなの? セッティングしてもらわないと困るな。俺、先輩だよ?」


 芹沢が言っているのは燈子のことだろう。今朝、会話しているところを見られていたら、もっと厄介なことになっていたかもしれない。

 ぼくは「さあ」と「どうでしょう」と「わかりません」で構成された返事でかわし、半ばひったくってカメラを取り返した。これ見よがしにクリーニングクロスで拭く。


「生意気だねえ、吉瀬くん。そういう態度だから嫌われちゃうんだよ。早くセッティングしろよお」


「ともかく、気軽に連絡できる間柄ではありませんので」


 数時間前に今生の別れというやつをしたばかりだ。


「なんで? 気軽にやればいいじゃん。俺の電話番号、向こうに教えていいからさ」


 馴れ馴れしく肩を叩き、芹沢は自分の席へ戻っていく。

 しっかり見送った後、ぼくはカメラとデータに異常がないか入念に調べた。

 ここまで気を揉んでいるのに、芹沢の過失でデータが失われていた……なんて笑えない。


 なんにせよ、早々に自宅へ避難しよう。

 ボディバッグに工具入れとハンディカメラを収めて頭を上げる。

 シルバーラックの上に、ピンクの携帯電話が置いてあった。あの画像が脳裏をかすめる。

 かといってここに置いたままにして、芹沢に余計なことをされたら……台無しだ。


 意を決して携帯電話を掴み、それもバッグに入れた。爆弾でも抱えている気分だ。

 気が付けばこれだけの動作にまたしても汗だくになっている。顔の周りにも汗がにじんで髪が張り付いていた。


 ぼくは作業フロアを抜け、いったん男子トイレに入った。

 青い正方形のタイル張りの古めかしい内装だが、清掃業者が入っており最低限の清潔感が保たれている。入って左手側が洗面台三つ、右側には小便器二つに個室が一つだ。

 人の気配はない。窓からは夏の西日と蝉時雨が無遠慮に射しこんでいた。光と影はくっきりと分かたれ、洗面台側はタイルがまぶしく照り返している。

 ぼくは電気をつけぬままなにげなく真ん中の洗面台の前に立った。台の上にハンドタオルと眼鏡を置き、水を強く捻りだす。手と顔のべたつきを洗い流し、うつむいたままハンドタオルに手を伸ばした。まさしくその時だった。


「吉瀬くぅん」


 芹沢の声がして、ぼくは――硬直した。

 直感、予感といってもいいかもしれない。

 ゆっくりと、髪の隙間から正面の鏡を覗き見た。


 映る背後には、小便器と個室のドアがある。灰色の個室のドアは閉じられており、その真上に丸い灰色の物体が乗っかっていた。

 裸眼でははっきりとした輪郭が掴めないが、ドア上の球体には三つほど穴が開いている。


 作業フロアに芹沢がいたかどうかなど確認していない。しかし、彼がこんなところで僕を待ち伏せする理由はない。何にせよ、小柄な彼では便器の上に乗ったとしてもそこに頭を置くことはできないはずだ。


 バシャバシャと水音だけが雄弁に語り続けている。

 光の当たらぬ薄闇の中に浮かぶ血色の悪い顔がもぞもぞと穴を蠢かせる。


「吉瀬くぅん」


 芹沢を模したはもう一度話しかけてきた。

 聞こえぬふりで鏡からゆっくりと視線をさげ、ハンドタオルを掴んで引き寄せる。手を拭い、顔に押し当てたその手――その指に、ひや、としたものが重なった。

 指に、手の甲に、重なる形状。優しく撫で回すようにまとわりついている。鏡の中から伸びた冷たい手が、ぼくに触れている。そう想像せずにはいられなかった。

 どかどかと拍動する心臓を少しでも押さえこもうと、ぼくは息を止めた。

 知らぬふりを貫き通すなら、ぼくはこのタオルを下げて、眼鏡を手に取り、鏡を見なければならない。

 拭いそこなった水滴か、はたまた新たに噴出した冷や汗か、こめかみからぬるっとしたものが垂れ流れた。


 いつまでもこうしているわけにいかない。

 ぼくは片手で顔にタオルを押しあてたまま、もう片手を眼鏡を置いた場所へ伸ばす。鏡の前だ。

 やがて馴染み深い感触に指先が当たり、ぼくは毟り取るように引き寄せた。

 同時に身体を鏡から背ける。

 タオルの隙間から覗き見るようにして視界を確保しながら、足早に出口に向かう。

 ドアノブを握り、力いっぱいに押し開けた。


「――わっ!」


 重い反動と、またしても芹沢の声が聞こえた。

 だが、構っていられない。

 狭い通路に転がっている誰かを跨いで越え、ぼくは背中に向けられた罵倒も無視して雑居ビルから脱出した。


 ショーウインドウのガラス。

 電車の窓。

 通り過ぎる人の顔。

 どれもが、不気味のヴェールに包まれていた。


 夜、ぼくの自宅にだけ訪れるものだと思っていた。

 そうではなくなったのだ。

 いや、もともとそうではなかったのではないか。

 なにせ、相手は無邪気で理不尽だ。残忍な子どものような化け物だ。


 ぼくを苦しみ慄かせるために、どこまでも、いつまでも追いかけてくるという意思を感じた。

 自宅のドアの、隙間の、暗闇の、鏡の――何かの向こう側からずっと見られているのかもしれない。


 だが、それも今晩でおしまいだ。

 明日になれば――。

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