復讐の女神


 まず、帰りがけにいつもよりアルコール度数の高い缶チューハイを買った。浅知恵かもしれないが、朝まで起きなければ恐ろしい思いをすることもない。幸いにもぼくは長いこと寝不足気味だ。

 家に帰るなりシャワーを浴び、それからネットで調べた通りの方位と水回りに盛塩を設置する。気休めかもしれないが、気が休まって深く眠れるのなら御の字だ。

 明日は本物の霊媒師・東雲最明先生の除霊を受けられる。データの扱いも、プロに相談できれば解決するだろう。

 場合によっては中西との戦いになるかもしれないが、それはそれだ。

 今夜、あいつに応じなければ助かる。


 あいつ。

 携帯に残っていた首吊り少女の画像。あの写真を撮った――何かの向こう側にいて、こちらからははっきりと捕らえることができない、しかし、確実にそこにいる何者かだ。

 いる。

 あいつは、存在している。

 否定しようがなく、たらたらと嫌な汗が滲み出た。


 同時に、正体を暴きたいという気持ちもあった。

 これすらも好奇心や探求心などではない。恐怖からくる衝動だ。

 とはいえ、震えて待つより少しでも踏み込んだ方が希望があるように思える。


 ぼくはボディバッグから携帯電話を取り出し、今度はメールの履歴を漁り見る。罪悪感よりも自己防衛欲が勝っていた。

 登録アドレスは『水島 琉璃亜』の一件のみ。他は、持ち主の少女の性格を鑑みて、すべて消したという方が正しいだろう。

 メールボックスにも水島琉璃亜宛てのメールだけが数件残っていた。


 興奮と寒いものを感じながら、ぼくは連ねられた文字を目で追った。


 *


『とうとう明日だね。自殺アパート。

 今夜は星がよく見える。

 私たちの死の復讐劇を祝福してくれてる……。

 私たちの犠牲によって、間違った世の中がよくなるのね……』


『おなか痛いっていってたけど、大丈夫? まさかこんなときに大? なんて、冗談! 最後は綺麗に死にたいよね。

 掲示板で教えてもらったアパート、本当に鏡あったね。でもあの部屋すっごいクサいから隣の部屋にいるね。待ってるから』


『迷ったの? 大丈夫? もう暗くなってきたし心配だよ』


『充電無くなりそうなんだけど。電話でもなんでもいいから返事しろ』


『もう少しだけ待ってあげる。それまでに来たら許してあげる』


『人は所詮 一人で生まれて 一人で死ぬの

 だけど怖くない

 あなたがついてるもの

 少女たちは 腐りきった世の中に 鉄槌を下す復讐の女神になる』


『逃げた? 殺すぞ』


『メール見てるんでしょ。

 約束したのに。

 裏切者。

 死ね。

 おまえ許さない悪霊に殺してもらう』


『いる。いっぱいいる』


 *


 おぼろげながらに嫌な想像がついて、ぼくは『水島 琉璃亜』の名前を調べた。

 インターネット上には、数件の記事が残っていた。落胆と納得の溜息が出る。


 水島琉璃亜は十年前に自殺していた。

 近所の用水路でパイプと自分の首にとくに意味のないロープをかけて溺死していたのだ。

 当時の無粋な連中の仕業だろう。小柄で華奢だったと思われる彼女の身体がぶくぶくに膨らみ、狭い用水路の中で濁流を遮っている写真が残されていた。

 死にざまもさることながら、大学に合格した直後という不自然なタイミングだった。自殺と判断されたのは遺書が見つかったせいだった。遺書には『許して』と書かれていた。

 生きていれば、ぼくより一つ上の年齢になる。


 許して。

 そう書き残した水島琉璃亜が、死にたがっていたとは思えなかった。

 きっと――。

 いや、焦ってはいけない。


 真偽はともかく、整合性のつく仮説が必要だ。

 ぼくの恐怖を和らげるためでもある。生き残った後、都市伝説として番組編集をするためでもある。

 順を追って考えよう。


 十五年前、あそこは実際にはなんのいわく因縁もない廃アパートだった。

 そこに、田邊が都市伝説記事を書いた。ヤラセ記事だ。もしかしたらこの時点から保坂さんともなのかもしれない。


 このときの記事は都市伝説や怪談としては広まらなかった。しかし、水面下では自殺志願者の『実践場所』として細々と語り継がれていた。彼らにとって神聖な場所であるため、本当に死を望んでいる者にしか伝達されていなかったのだろう。


 事実無根な『実践場所』を信じ、何人があそこで死んだのか?

 おそらくは残された靴の数だけだ。中には何も知らず、連れられてきた子どももいたのかもしれない。


 中西の言葉を借りれば、ありもしないことを真に受けて人生狂った哀れな連中だ。命を捧げたいほどの復讐を、存在しない化け物に委ねたのだから。

 あまりにも可哀想だ――その復讐が果たされていなければ、ぼくはそう思っていたかもしれない。

 だが、水島琉璃亜は誰かに許しを請いながら死んだ。

 復讐は成された。

 長い歳月を経て、田邊が書いた記事のとおりとなった。


 神がいたから生贄が捧げられた、そんな物語は山ほどある。

 だがこの場合、物事の順序、前後、裏表がひっくりかえっている。

 生贄が捧げられたから、神が生まれた。

 つまり――


「嘘が、になった……?」


 蝉の声。

 遠い救急車のサイレン。

 近隣の誰かが歩く音。

 通り過ぎる電車の振動。

 ゆっくりと部屋の中をかき混ぜるエアコンの送風。

 日常の気配が敵に回った感覚があった。

 見られている感覚があった。


 急に喉が渇いて缶チューハイをいっきに煽る。

 すぐさまアルコールが効いてきて、数分もしないうちに意識さえも焦点があわなくなる。

 酩酊と恐怖が押しのけ合い、やがて混ざり合いう。


 落ちろ。

 早く眠りに。


 その願いは、聞き入れられなかった。


 酩酊が頭痛となったころ、ベッドを横たえるすぐ隣――ベランダとの境目であるガラス戸の向こうで男の声が聞こえた。

 読経のようにぶつぶつと、息継ぎさえせずに唱えている。

 聞き覚えのある声。

 音声チェックでよく聞く、自分の声だった。

 酔ったはずみで見た悪夢ならどれだけ良かっただろうか。防衛本能からか、意識ははっきりしていた。


 ぱきん、とガラス戸の向こうから音がした。

 位置からして、盛塩だ。買ってきたばかりの小皿が割れた音だろう。

 いつの間にかエアコンが停止していたせいか、部屋の中は生暖かくじっとりとした空気が肌にまとわりつく。

 後頭部は冷たい汗でべたついていた。さらに首の後ろがずきずきと痛みだす。気分まで悪くなってきた。


「聞こえてますよね」


 やがて、ベランダからの声もはっきりとした言葉になる。

 ぺたん……ぺたん……とガラス戸が叩かれる。


「わかってるんですよ。気が付いているんですよね。よね」


 自分の存在を、認めさせようとしている……?

 ぼくの認識上で、無から有になろうとしている……!


「いますよ。います。いっぱい、います」


 ダメだ。

 明日になれば、なんとかなるんだ。

 でも、逃げ出したい。

 大声をあげて部屋から出て、駅まで走り、コンビニに駆け込んで、とにかく誰かのいる場所に行きたい。


「燈子さん……」


 助けを求めるように呟いていた。

 どうしてその名が出たのかはわからない。


 ぼくはすっかり角守燈子に救いの手など差し伸べられて、こんな状況にもかかわらず浮かれているのかもしれない。

 オカルト的な言い方をすれば、心酔し、崇拝さえしていた。


 ふと、燈子が塩を渡してくるシーンを思い出す。

 楽しい思い出が魔を祓う……笑う門には福きたる、が転じた話だろうか。

 それにしたって、あれはなんともシュールな笑いだった。あのまま無表情でお笑い番組など見ているとなると、申し訳ないがそれこそ愉快な光景だ。


 意識がぼんやりとしてくる。

 気分の悪さも、和らいできた。

 いつの間にか、ぼくではないぼくの声もぶつぶつと唱えながら遠のいていく。


 守ってくれたに違いない。

 ぼくはそう思い込もうと、崇拝者のように燈子に祈りを捧げた。

 そうこうしているうちに、あっけなくぼくの意識は夢の中へと攫われていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る