訪問者


 その日の夜のニュースでは、赤城は自殺と断定されていた。

 近くの防犯カメラに彼女が己の巨体をミキサー車のタンクにねじ込む様子が一部始終映っていたのだ。


 インターホンが鳴って、いつもどおり対応するため玄関口に出て「呼ばれちゃって。可哀想だからちょっと行ってくる」と言い残し、そのままいなくなったと彼女の夫は証言していた。

 どうしてミキサー車のミキサーの蓋のロックが外れていたのか、彼女がそれを知っていたのか、なぜミキサー車なのか……。

 多くの謎を残すも、猟奇的な犯人が存在しないとわかると世の中の関心はまた別のニュースに移っていった。


 赤城を訪ねていたが、今度は別の誰かの――例えば美和の姿をしていたのなら、赤城は親切心や同情から無防備にドアを開いただろう。彼女が言い残した「可哀想だから」という言葉にも一応辻褄が合う。


 ぼくは中西にも予定のない来訪者に注意するよう言った。だが彼は「さよか。おまえんとこきたら撮影しとけや。警察沙汰っちゅうたら、金んなるで」と、仕事根性で笑って返した。まるで、燈子の忠告を真に受けなかったぼくそのものだった。


 犠牲者がクズのぼくや中西、鏡に近づいていた美和であれば『罰が当たったんだ』と思えたかもしれない。

 だが、あの場にいた中で、表面的であってにしろ善意的で同調的だった赤城が犠牲となった。それも想像もつかぬほどの苦痛と恐怖を伴う方法で。

 その理不尽が、不条理が、ぼくには堪えた。

 赤城のところにも、ぼくのところにも、が来た。


 終わっていないのかもしれない。

 次はぼくかもしれない。


 恐怖と混乱と緊張の中、唯一の救いは角守燈子と連絡がとれたことだった。


 彼女はあれから美和の部屋で寝泊まりしているという。霊感を持つ同居人がいるとは、美和がうらやましい。

 燈子はぼくの話も半ばに、あるいははじめからこうなることは見通していたかのように、はっきりと言った。


『目をつけられているのだと思います』


「呪われているってことですか……?」


『そうですね、そういう言い方のほうがしっくりきますね。亡くなられた方は、同調してしまったのでしょう』


 聞けば、美和の家でも同様の現象がたびたび起きており、家の周りを誰かが徘徊している気配があるという。

 その現象――霊障について、燈子はやはり「専門家ではないのでわかりませんが」と枕詞をおき、考えを口にした。


『あれは、きっと……窺っているのだと思います。手を下すべきか否か、あるいはより怖がらせたり苦しませて殺す方法を模索するため」


「怖がらせたり苦しませて殺す……ですか」


『脅かしてすみません。ただの勘ですがそんな感じがして。だから、もし現れて何か起きても、存在に気が付いた素振りを見せないほうが良いと思います。解決にはなりませんが、いまのところそれで美和さんは凌げているようなので。どうか耐え忍んでください』


 耐える……だけ?

 無理だ。相手は変幻自在に姿を変え、生活圏に入り込んでくる。

 人間社会で生きていく限り、人とのかかわりあいを完全に断つことは不可能だ。


「解決するにはどうしたら――燈子さんが専門家ではないことは承知です。例えば誰か相談できそうな方ってご存じないでしょうか?」


 唸るような長い逡巡があったが、答えは出ない。

 通話口の背後で美和のヒステリックに泣き喚く声が響くと、燈子はそちらが心配になったのだろう。


『ごめんなさい。わたしも知り合いを頼っているのですが、いまはなんとも言えません。明日九時、また一階の喫茶店でお会いしましょう』


 手短に言うと通話を切ってしまった。

 当然と言えば当然だが、彼女にとっては美和のほうが大事なのだ。


「まあ……仕方ないか」


 スマートフォンをおろして一人ごちた。

 明日になればきっと彼女の口から解決策が出るに違いない。

 今夜のうちインターホンを無視するだけならば、なんとかなるだろう。荷物が届く予定もない。


 ぼくは疲れもあって、早々に床に就くことにした。

 心身ともに疲れている。きっとまた横になって、目が覚めれば身体のだるさと共に朝を迎えるだろう。


 あえて楽観的に考え、目を閉じ、意識が闇に溶けて、目覚めると――デジタル時計が示していたのは、深夜二時だった。

 丑の刻だ。

 これは厭だな、と思いながらぼくは尿意もあって体を起こした。

 シンと静まり返り、闇の中に見知った家具の輪郭だけが浮かんでいる。


 なんのことはない。自分の家の中だ。家賃を払っているのはぼくだ、ぼくの領域だ。

 トイレで用を足して、床に戻って眠るだけだ。子どもだって出来る。

 朝目覚めたら燈子に会う。彼女は解決への道を示してくれるだろう。薄気味悪い夜は今晩だけの辛抱だ。


 自分に言い聞かせ、立ち上がり、暗闇をかき回して電気紐を探った。

 誰かが手を握り返してきたら……などと想像する。指にかかった紐の感触を何度か逃しながらも捕まえた。

 今度は、点灯した瞬間、目の前に誰かいたら……と。だが、闇も耐えかねて紐を引いた。いつもの簡素な部屋があった。

 恐ろしい空想と戦いながら、ぼくは狭い部屋を進み、トイレの個室のドアを閉めるところに到達した。


 変な話だが、ぼくは座って用を足すほうだった。それが幸いするなんて思ってもみなかった。

 体から力と水分と体温が抜けていく最中である。

 突然、視界から色が消えた。

 真っ暗になった。


 来た。

 ぼくはかぶりを振って、ただの停電だと自分に言い聞かせた。その直後だ。


「お兄さん、なんていったかしら」


 背後から脂ぎった女の声が、はっきりと聞こえた。


 ぼくは悲鳴を上げそうになる自分の口を手で塞いだ。

 偶然、便器の上に座っているだけで、間違いなく恐怖のまま漏らしていた。体温と理性もぼどぼと便器に落ちているようだった。


「はい、美和ちゃんもどうぞ」


 何故。

 どうして、いまここで。こんなところで。

 トイレの背面は小さなすりガラス窓だ。換気扇替わりに四分の一ほど空いており、網戸が張られている。つまり覗こうと思えば外が見えるのだが、ここは二階なので――。

 そんなことは関係なく、来たのだ。

 赤城を殺したヤツが、赤城の姿、言葉を奪って。


「あなたもなんだかワクワクしてきたでしょう? ワクワクしてきたでしょう? ワクワク?」


 ぼくの身体から水分が抜ける音が細くなる。

 何者かの息遣いがいっそう耳に入る。


 燈子の忠告によれば、応じてはいけない。気づいた素振りも見せてはならない。

 ならばぼくは、この状態で何事もなかったように立ち上がらなければならない。

 自分にそう言い聞かせた。


 ゆっくりと、何者かに触れられることを恐れながら後ろ手にトイレのレバーを引き、立ち上がるところまでなんとか成し遂げ、ドアノブを握る。

 開けた先に何かいたら……。

 その想像が一瞬、躊躇わせた。


「わかってるのよ、昨日からの無言電話。あんたたちの仕業だって。わかってるのよ、わかってるのよわかってる。あなたが私のこと、いるって認めてるの、わかってる。無視しようったって無駄よ。いるのよ」


 鳴ってしまいそうな歯を食いしばり、ドアノブを捻ってぼくは体をトイレの外に押し出した。

 やはり部屋の中は真っ暗だ。

 待機電源の点灯すら見えない。ブレーカーが落ちたのだろう。いいや、落とされたのだ。


 ブレーカーは、玄関口にある。

 ぼくはほんの数歩をがむしゃらに歩き、天井近くを手探る。あるはずのない別のものに触れてしまうのではないかというイメージが脳裏にぶくぶくと溢れかえる。

 幸いにも、形に覚えのあるレバー式のスイッチに指が当たった。

 これを押し上げた瞬間に、生コンを腹いっぱいに飲み込んで苦しみ悶えながら窒息死した赤城の顔が目の前に――だめだ、想像するな。

 スイッチを押し上げた。


 パッ……と。

 優しげな温白色が広がった。

 玄関から廊下、リビング兼寝室まですべて電気がついている。

 見知ったぼくの領域だ。


 いままで呼吸さえままならなかったのか、ぼくは深呼吸した。

 すぐ隣、ドアの鍵が掛かっていることを目視して安心する。

 なんならチェーンもかけておこう。

 迷ったがこのままでは安心できないので、恐る恐るドアスコープを覗く。

 歪んだ円形の視界の中には――寂しいアパートの廊下が蛍光灯に照らされているだけだった。


 去ったのか。

 とりあえずは。

 この夜は守れたのか。


 失った分の水分を台所で補給する。

 のどが乾いていたが、胃がぎゅうっと軋んでがぶ飲みはできなかった。


 クーラーの設定温度を下げ、電気をつけたまま掛け布団がわりのタオルケットをしっかりかぶる。薄さが心許ない。

 しかも、ぼくの部屋は狭さの都合上、首を曲げれば廊下、玄関、ドアと一直線に視界が開けていた。


 やり過ごせたとしてもこんなことが何日も……最悪、死ぬまで続くのか……。

 見たくない……。


 迷いに迷ったがやはり電気を消すことにした。

 タオルケットを払い、起き上がって電気紐を掴む。ちょいと引っ張ると視界は黒に塗り潰された。

 ぼくは――さっと腕を引いて、震える身体をゆっくりとベッドに横たえた。


 灯りが消えるその一瞬、ぼくは照明の傘からだらりと伸びた巨大なイモムシを見た。

 先端は五つに分かれており、黒々とした血をにじませ、ぷっくりと肥えていた。灰色で、薄黒く血管が浮き、ぼくの手に触れようと伸びてきて――それは、間違いない。人間の腕だった。

 隠れようもない照明の傘の裏から、変色した腕だけがぶらさがっていたのだ。まるで死に物狂いに何かをひっかき剥がれた爪、ハムのような肉付き。誰が、どうやって死んだときの腕なのか、考えるまでもない。


 理解する前にぼくは電気を消してしまったが、あの腕はまだ照明からぶらさがっているのだろうか。

 闇は輪郭さえも教えてくれない。


 目を閉じて、呼吸を押さえつけた。

 やがて疲労が睡魔に変わる。そのまま押しつぶしてくれと願った。

 まどろむ意識の中、ぎっ……と床が軋む音が鳴る。


「いるのよ」


 ぼくは応じず、ただ眠りに沈むのを待っていた。


「いるの。いっぱい、いっぱい、いるの」


 無視しなければ……。


「無駄よ。わ、わたし……たち、ごぼ、お、おごぇえ……いひっいっぱいいおええ……ひっごぼっ、ごぼぼ……ぐるじ、ぶお、ふふぼぼぼ……いるのよぼぼぼ……」


 だけど、ぼくは。

 見られている。

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