《DAY4 7月18日》 見つめる者

立ち上がる者


 あれから――。

 赤城の狂気と苦痛、その断末魔から耳をそらし、目を閉じながら怯え、幸いにも一時間ほど意識を失った。

 明け方にすぐ横を通る電車の音で目を覚ましたぼくは始発を頼りに家から逃げ出し、開店時間と同時に待ち合わせの喫茶店に駆け込むなり、一番安いブレンドコーヒーの一杯で二時間ほど粘った。


 ここなら話しかけてくる他人の声があっても我関せずでいられる。

 ぼくにとって忌むべき人間社会の中が、ドア向こう、暗闇の向こうの悪霊から逃れられる場所になるとは、なんとも皮肉な話だ。


 まぶしいほどの夏の朝がテラス側から差し込んでくる。きらきらと照り返すコンクリートや鮮やかな緑。蝉の声も次第に厚みを増した。

 日頃、埃っぽい倉庫にしまわれて蛍光灯の下、パソコン画面とにらみ合っているぼくの目には沁みる風景だ。

 鮮やかな世界を遠目に身ながら、エンスト状態の頭でなんとか思考した。


 なんにせよ、早く助かりたい。

 化け物の魔の手から逃れたい。

 そうすれば――だけど、助かったところでぼくの日常は変わるだろうか?

 化け物から逃れたところで、人間様の群れの中で怯えて搾取されながらゆっくりと死を待つだけではないだろうか。

 それもいやだ……。


 美和がアイドルに返り咲いたのなら。

 中西が新たな都市伝説を作り出して、見下す連中の鼻を明かせたのなら。

 得体のしれない化け物から逃げ延び、世の中の化け物にも報いるための一矢を作り出せたのなら、ぼくも――。


 甲高い奇声が響いた。

 うとうとと半ば舟をこいでいたようで、ぼくは目覚めると同時に身体をすくませる。

 なにごとかと視線を向けると、店の前の通りで小さな女の子がわんわんと泣き声をあげていた。夏場はガラス窓が開け放たれており、みっともない声が穏やかなBGMを貫通している。

 母親は近くにいるのか「いうこと聞かない子はうちにはいない! うちのこじゃない! ばいばい!」とヒステリックな声が響かせていた。


 なんて理不尽な。

 ぼくは、そう思いながらも、見て見ぬふりで席に座っていた。周囲の反応も、ものの見事にすべてがそうだったからだ。

 こういうとき、どうするのが『優しさ』や『正義』なのかはわかっている。女の子にかけよって声をかけるべきだ。

 だが、ぼくにはそれを実行するだけの勇気がない。目立つのが怖い。

 見捨ててしまったようで申し訳ない気持ちになりながら、ぼくは人間たちの群れに身を隠すことを優先させた。

 捕食者の群れの中で生きるには、感情を押し殺すほかない。ノストラダムスのおかげで、諦めるのだけは得意だ。


 そして、ぼくが待ち焦がれていた黒三角の人形は、化け物たちの視線に怯むことなく、通りの向こうから女の子に駆け寄った。

 座り込んでいた女の子の前に膝をついて二つ、三つ、声をかける燈子。

 結果、女の子は泣き止んだものの、安心したというより突然現れた黒づくめで無表情の人形めいた女が話しかけてきたことに呆然としている、といった様子だ。


 どうしてか、ぼくはその光景をただぼんやりと見ていた。眠気のせいもある。

 恥ずかしい言い方をすれば、見蕩れていた。羨望していた。

 燈子のように助けたかった。

 女の子のように助けられたかった。

 少なくとも弱肉強食極まるぼくの世界で、そんなまぶしいものを見るとは思わず、胸がざわついた。


「アンタ、うちの子に何するのよ!」


 戻ってきた母親の金切り声で、ぼくは夢うつつから引き戻される。

 言い終わらぬうちに母親は燈子を容赦のなく突き飛ばすと、再びぎゃんぎゃんと泣きはじめる子どもを抱えて走り去った。

 サイレンのように子どもの声が離れていく。爽やかに気取ったBGMが戻ってくる。気まずさと静けさだけがその場に残された。


 通りで尻もちをついていた燈子が立ち上がり、何事もなかったかのように入店すると、今度は好奇の目が彼女に刺さる。

 だが、燈子はメビウス症候群による涼しい顔で、こんもりとクリームが乗った抹茶アイスラテを片手にぼくの対面に腰を据えた。


「おはようございます、吉瀬さん」


「おはようございます、燈子さん」


 そんな燈子の登場に、ぼくは圧倒され背筋を正した。

 美和は彼女を「いいこちゃんムーブ」と言っていたが、善人そのものだ。正義の味方といってよいかもしれない。

 角守燈子は、ぼくらにも、知らぬ子どもにも、毅然と正しいことを成す。それを口にするには気恥ずかしくて、あんな言い方をしたのだろう。気持ちはわかる。


「お忙しいところ及び立てして申し訳ありません」


 燈子はおもむろに使い捨てのおしぼりで両手を丁寧に拭いていた。

 わずかに滲む赤色――血だ。


「それ、大丈夫ですか? さっき――」


「見ていらっしゃったんですね」


「ああ、あの……はい」


 見ていた……だけ、だった。意思表示さえ恐れて、立ち上がれなかった。

 後ろめたさを知ってか知らずか、燈子はおしぼりを几帳面に畳みなおし包装の上に置く。


「あの子は『自分で立てる』と言っていたので大丈夫ですよ。偉いですよね」


 ぼくが心配したのは燈子のことで、泣いていた子どもではないのだが。

 燈子は間髪入れず、


「吉瀬さんこそ大丈夫ですか? 目が真っ赤ですし、顔色もよくありません」


 と、今度はぼくを心配した。

 怪我をした彼女自身より、小さな子どもより、心配されている。ここでもぼくは最下層かと自嘲しつつ、昨晩の出来事を強がり満載で伝えると、燈子は会ったこともない赤城に同情を示した。


「ひどい……自殺挙句、操り人形にされるだなんて……」


 それから、ぼそりと付け加えた。


「いじめ……みたいですね」


「あ、あああ……」


 残念ながら納得いった。ぼくも小さい頃にはそれを受ける側の人間だったからだ。

 なにをやっても『どうせ世界は滅びるから意味がない、みんな死ぬ』などと言っていたぼくがどんな子どもで、どんな扱いを受けていたかなんて想像に難くないだろう。


 世の中で騒がれているケースほどひどくはなかったが、『どうせ死ぬならいいだろ』と無残に殺された虫やトカゲを投げつけられ、怒りと憐れみの中で後始末した光景は、大人になったいまでも時折思い出してはぐるぐる巻きに梱包して奥深くに仕舞う。


 そんなトラウマ級の惨たらしい扱いで、赤城の命は毟られ、ぼくはその死を投げつけられた。

 その行為を、ぼくも『いじめ』と表現する他なかった。

 言い方から察するに、燈子にも似た記憶があるのだろう。


 気が付くと長い溜息が零れていた。

 記憶のどぶ攫いをしていると、燈子にはわかったのだろう。彼女はそれ以上触れず、話題の時系列を昨晩に戻した。


「実は、昔にお世話になった霊媒師の先生に、どうにか早急に除霊をしてもらえないかとお願いして、その返事を待っているところでした。吉瀬さんの電話の後、明後日――明日だったらとお返事いただけて。急なお話ですし、撮影禁止で料金もかかります。よろしければ吉瀬さんたちもいらしてください。先生は本物ですし、堅実な方です」


「え……本物の霊媒師の、除霊!? ぼくたちもいいんですか?」


「もちろんです」


 除霊。

 その言葉に身を乗り出していた。

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