天婦羅蕎麦
郊外の知らない道。
車を少し走らせたところで見かけた古めかしい看板の蕎麦屋に入る。
店内は出汁の香りが漂い、店員は老夫婦二人のみ、客はいない。高台にブラウン管テレビが置いてあるような、古き良き地元の蕎麦屋だった。
カウンター席に着くなり中西は問答無用で上天婦羅蕎麦を二つ頼んだ。
「俺がおまえにできることこのくらいやけどな」
ぼくの肩を、やっぱり強すぎる力で叩いた中西に、ぼくは「いいえ」と首を振った。
彼の強引なまでのバイタリティーに甘えているのはぼくのほうだ。
「自分、"いいえ"言えるやんけ」
歯を見せて笑う中西に対し、ぼくは唇の両端が吊り上がるのをこらえきれなかった。
いままでの八つ当たりを許したわけでもない。
しかし中西の見ている浪漫が、ぼくにもちらちらと見えてしまっていたのだ。その浪漫に、良い意味でも悪い意味でも純粋な中西を理解できるような気も。
「お待ちどうさま」
先に蕎麦が二つ並び、ぼくたちは揃って箸を割る。
やがて中西が勢いよくそばをすする音が店内に響いた。
追って天ぷらも登場する。
ぼくはつゆに油が浮くのが苦手だったが、取材前の会話からすっかり海老天婦羅を食べる気になっていて、いままさに揚げたてのそれが目の前にあることに耐えられなかった。
贅沢に海老天婦羅から口に運ぶ。
「……ん、ま」
驚いた。
ころものさっくりとした歯ざわりと、海老のぷりぷりした食感。噛みしめると口の中に飛び込んでくる海鮮のうまみ。
余韻冷めやらぬまま、続けざまにそばを味わう。味やのど越しはぼくにはわからなかったが、噛み応えのある食感に懐かしささえ覚えた。
唾液腺がずきずきと痛みながら広がっていく。
これが人間の食べ物なのか……などど化け物じみた感想をぼくは抱いた。
そしてふと、味わうこと自体が久々であると気が付いた。
いままでのぼくの食生活など食べられるか食べられないかでしかない。最低限の栄養摂取だ。いわば動物だ。畜生だ。
――ああ、だからぼくは人間文明感に怯え似た心地の悪さを感じていたのだろう。
社畜を食って生きている人間の群れに、見事なまでの社畜が紛れ込んでいるのだ。捕食者の群れの中の獲物。その緊張感……無理もない。
情けなさに目頭が熱くなるのをこらえながら、束の間の人間ごっこを楽しむことにした。
「吉瀬、この白い天婦羅うまい! 食うてみ」
中西は相変わらずうるさく自分のペースをぼくに押し付けてくる。まったく鬱陶しい。
しかし、ぼくはそれに乗っかり、白い天婦羅を口にする。たぶん、
ころもの歯ざわりの奥には、ふわっとした白身が待っていた。薄い塩味が魚本来の甘味を引き立てている。ぼくは目を閉じ、できるだけ情報を遮断して口の中に神経を集中させた。
名残惜しみながら嚥下して目を開くと、万遍の笑みの老夫婦と目が合った。
恥ずかしい。思わず目を逸らす。火照った頬を、うつむき蕎麦を啜って誤魔化した。
「蕎麦ぁ、正解やったな! どや! 俺の勘、ここんとこ絶好調や。この調子でいくで!」
こういう面だけ切ってとれば、中西は体育会系で浪漫を追うアツい男といえるだろう。
ぼくは、いつかぶっ殺してやると思うこともあれば、こんな一面も見て中西も悪いヤツではないと思うこともあった。水面の葉のごとくゆらゆらと。
それでもやはり、無意識レベルで拳も蹴りも出るし口も悪いしデリカシーどころかリテラシーも礼節も欠損しているという点に目をつむることはなかなかに難しい――難しいが、ぼくは中西に対して無気力バリアを解除してもう少し歩み寄る努力をしても良いのかもしれない。
ぼくは灰色の蕎麦をゆっくりと咀嚼しながら、さてまずはどう接してみようかなどと考えていた。
まさにそのタイミングだった。
『今朝のニュースの続報です』
テレビから緊張感が伝わった。
『今朝八時ごろ、ミキサー車のドラム中に人がいると通報を受け警察が向かったところ、都内の工事現場近くに停車していたミキサー車のドラム内部から女性を発見、女性はドラム部分を切断して救出されましたが、搬送先の病院で死亡が確認されました。死因はコンクリートによる窒息死とみられています』
「なんやけったいなニュースやな。生コン腹いっぱい飲んで窒息死とか俺は絶対嫌や」
画面には蕎麦と同じ色をした生コンクリートを横腹から滴らせるミキサー車が映っていた。口の中に入っていた蕎麦を喉の奥に押し込む。
店内が静まり返る中でニュースは続いた。
『所持品から、女性は都内に住む町田絵梨さん(45)であると確認され、警察では事件と事故の――』
町田絵梨――赤城エツ。
画面右下には、饅頭のようなでっぷりとした顔が映る。
ぼくは総毛立ち、言葉を失った。
店主が「ありゃあ」と言いながらリモコンを操作する。甲子園球場、球児たちの青春が映った。試合はもう終盤で点数に絶望的な差がついていた。
我に返ったのは、ぼくのスマートフォンがけたたましく鳴り響いてからだった。
発信元は島袋美和。
震える指で応答ボタンを押し右耳にそえる。絶叫じみた声で彼女は何度も『カメラマンさん!』と呼んだ。
要領をえない彼女に、ぼくは先んじて「ニュース、見ました」と答える。
美和は泣き始めた。
『死んじゃう、死んじゃう! あたしたち死ぬんだ! 今日も無言電話あったし、玄関前に誰かきてた! お化けに狙われてる! 怖い、怖いよ! どうにかしてよ!』
一方、空いた左耳には、
「よっしゃあ、ビッグニュースやんけー! また一丁、箔がついたわ! さすが絶好調や!」
目を煌めかせガッツポーズをとった中西の嬉々とした声が飛び込んでくる。
高校野球のことと勘違いしているのだろう、店の老夫婦は「よかったねえ」などと言いながら微笑んでいた。
中西は、赤城の死を喜んでいるのだ。
同族の死を。
己の伝説のために。
『どうしよう、あたしたち死んじゃう! やだやだやだ! 助けて、助けてよ! やだやだやだやだやだやだ! あんな死に方、いやーッ!』
「祝い酒や! おっちゃん、ビールちょうだい! 生ビール!」
ぼくは左右から聞こえてくる音の温度差に意識が眩んだ。
赤城の巨体が、ミキサー車の中で生コンクリートにまみれ……。
今しがた嚥下した灰色のブツを吐き出さないよう、丁寧に呼吸していた。
――助けてくれ。
脳裏には、黒い三角の人形――角守燈子の姿が浮かんでいた。
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