《DAY2 7月16日》 黒三角

メビウスの乙女-(1)


 昨日の疲れがのしかかる体で満員電車に乗り、オフィス街の中でもみすぼらしい雑居ビルにたどり着く。

 五階建てのビルの四、五階がぼくの勤め先である映像制作会社だった。しかしながらぼくのデスクは無い。


 いわゆる一軍は五階のフロアに集まり固定の部屋と固定のデスクが割り当てられ、二軍には会議机とパイプ椅子といった格付けがあった。無論、中西組(中西とぼくの二人のことである)は"それ以下"、"論外"だ。席などない。

 つまり、ぼくはこの組織のプランクトン、被搾取の最下層に属している。

 本社の人――支社なんてないけれどぼくはそう呼んでいる――にとって、あの中西の部下を続けているぼくは珍獣であり、顔を出せば嬉々として遠慮の塊であろう甘い炭水化物を与えに来る。誰もが白い歯を見せ、にこやかに視線を合わせ、爽やかな口調で語り掛けてくる。それが一日中続くと思うと、ぼくには耐えがたい苦痛であった。人間活動に向いていないとつくづく思い知らされる。


 四階の二軍フロアの隅にある倉庫が、ぼくの逃げ場だった。

 メタルラックの間、人ひとりが通れるスペースの突き当りに腰かける。胡坐の上に置いたノートパソコンからイヤホンを伸ばし、ぼくは構成案の修正にとりかかった。昨日の収録で想定外のことが起きたので、尺の使い方も考え直さなければならない。

 埃っぽく薄暗い場所だが、飛び交う人間たちの声が壁一枚向こうの他人事というのはぼくにとってこの上ない良環境である。


 そうこうして修正作業が概ね終わり、ぼくは車の準備前にコーヒーでも飲もうと立ち上がったところであった。

 倉庫のドアが向こう側から開き、ぼくより年下の先輩がにやにやとふやけた顔を出す。


「吉瀬くぅん」


 朝には似つかわしくない、粘っこい猫なで声だ。

 年下の先輩――芹沢優一はいわゆる誰にでも分け隔てなく接するタイプだ。ぼくなりの言い方をすれば、適切な距離感がわきまえられない男である。

 見てくれは白シャツに長めの茶髪でいかにも人懐っこい好青年で、社内では憎めないヤツといった評判だ。

 裏ではぼくのことを盗撮オタク、オカルトゴリラなどと嘲り笑っている。

 小柄で華奢な彼からしてみれば、一八○センチを超えたぼくはゴリラに見えるのだろう。ぼくとしてもこんな出来損ないといっしょにされるゴリラに同情を禁じ得ない。


 そんな芹沢の声かけに、ぼくは隠しもせず嫌な顔をした。

 芹沢はぼくの心情をわかっていて、まぶしいほどの笑顔で応じる。


「お客さん来てるよ」


 それから下心丸出しの小声で「かわいい女の子が、二人も」と付け加えた。


「わかりました、ありがとうございます」


「どっちが吉瀬くんのコレなの?」


 無作法に小指を立てた芹沢。

 今時そんなジェスチャーをする二十代がいたのか。これも無遠慮に心情を顔に出した。


「やだなあ、怒らない怒らない! 笑ってないと福が逃げちゃうよ。女の子を待たせるのも良くないしさあ」


 余計な話を差し込んできたのはどっちだ。

 ぼくは文句を会釈に代えた。


 出入口に向かう最中、頭に思い浮かんだのは島袋美和だった。彼女とセットとなるともう片方は赤城となる。だが、あの饅頭おばさんを『かわいい女の子』にカウントする勇気はぼくにはない。では誰が他に……。

 考え終わる前に雑然とした会議机のエリアを抜けて出入口へ。すぐそこは階段とエレベーターのエントランスだったが、二メートル四方の狭い空間に女性が二人立ち並んでいた。

 片方は青い顔をした島袋美和、もう片方は見覚えのない女性だった。


 美和は男性受けを狙ったファッションで、例えるならピンク色の丸。

 一方、隣に立った女性はすらりと背が高く、黒いストレートヘアに黒づくめ、シルエットそのものが黒い三角形だった。


「朝早い時間からすみません。昨日は大変な失礼と、大変なご迷惑をおかけしました」


 ぼくの顔を見るなり、美和はやはり棒読みで一気にまくしたてると頭を下げ、クリーム色の紙袋を突き出した。

 一瞬ポカンとしたものの、ぼくは脳内でひとつ手を打つ。


 中西が上機嫌なのですっかり順調だと思っていたが、美和からしてみれば撮影中に気を失い目覚めたら車の中、あまつさえ病院搬送という状況だ。謝罪の菓子折りということだろう。

 彼女が大変失礼だったのは確かだが、それを蒸し返してマウントをとるのは性に合わない。

 差し出されたものを受け取りつつ、ぼくは事務的に返した。


「お気になさらず。アクシデントのおかげで好転しているほどです」


 彼女のしたことにまったく感情を動かさない。大人の対応……という皮を被った、ぼくにとって目いっぱいの報復だった。言い返して、さらに言い返されるのが怖かっただけだ。

 それはそれでケロっとしてまた調子に乗るかとも思ったが、美和は存外にもいっそうかしこまる。


「いやあ、ええと……そういう対応されっと……。カメラマンさんがあたしを背負って山を下ってくれたって聞きました。なんつか……調子に乗って色々言っちゃって、マジすみません」


 先ほどとは打って変わって、ずいぶんと砕けた言い方だった。これは本心なのだろう。見た目に反して、男らしい性格なのかもしれない。


「それよりも体調はどうですか? 検査などは?」


「脱水症状気味っていうだけで別になんともないみたいです……。お医者さんはストレスじゃないかって……。それで今朝、友達が付き添ってくれて、そんで帰ってきたところで……」


 黒い三角形の女性に、美和が手を添えた。

 売れないとはいえ、アイドルの美和と並んでも見劣りしない美人だ。愛嬌というより、美貌という言葉が似合うだろう。

 同時に、強烈に人を拒む雰囲気があった。冷たく無機質な印象さえある。誰かが手心加えて丹念に作り上げたマネキン人形なのではないか――そんな不躾な妄想が広がりかけた。

 彼女は長い黒髪を揺らし会釈する。ぼくは彼女に電源が入ってしたとさえ思った。それだけ人形めいていたのだ。


 そこにスマートフォンの短い着信音が割って入る。

 見てみれば、中西から『飲みすぎて寝坊したわ。一時間遅れる』とメッセージが届いていた。

 予測変換でたまたま表示された可愛い猫ちゃんスタンプで『♡OKです♡』と返す。ぼくなりに和ませるためのジョークを言ったつもりだが、中西の応答は『きしょい』だった。


「それで、なんですけど……」


 改まって美和がのぞき込むように聞いた。謝罪はさておき、こちらが本題のようだ。


「あのときの映像、友達に――燈子に見せてもらうことって、できないですかね?」


「昨日の、ロケのですか……?」


 美和の言い方からして、守秘義務の問題があるのはさすがに承知の上なのだろう。

 美和に見せることは問題ない。むしろ、この有様を番組に使ってよいものか確認するべき内容だ。

 しかし、友人に見せるとなると話は違ってくる。


 いぶかしむぼくの表情を読み取ったのか、続いて深々と頭を下げたのは黒三角の人形――燈子のほうだった。


「おねがいします」


 喋った。

 涼やかだが、どこか陰気な声だ。


 今度は美和が燈子の姿勢を真似た。

 うら若き女性が並んで後頭部を見せている、こんなシーンを芹沢にでも見られたら面倒だ。


「まずは詳しいお話をきかせてもらえませんか?」


 半ば慌てて提案し、ビルの一階に入っている喫茶店に場所を移すことにした。


 喫茶店といっても、コーヒーのチェーン店だ。小洒落た音楽と横文字ワードで会話する声が飛び交っている。ぼくの苦手な人間文明的な空気だが、隠れ蓑にはちょうどいい。

 ぼくという人間社会の異物を含んだグループも風景に溶け込んでいる、はずだ。


 テーブルには最安値のアイスコーヒー、カフェラテと生クリーム山盛りの抹茶アイスラテが並んだ。

 見栄を張ってぼくが財布を開くことになったわけだが、金額的にもっとも遠慮が無かったのは燈子だった。その注文には美和さえも苦言を呈す。


「奢りだからって、それはなくね……?」


 こそこそと「どう見たって金に困ってそうじゃん」と。

 燈子は無表情ながら白い肌を茜に染めて、小さく頭をさげた。


「この子、空気読めないっつか……今年の春に田舎から出てきたばっかなんです」


「いえいえ。どういったご友人なんですか?」


 ぼくは手を左右に仰ぎ、抹茶にそびえる白い山から話題を逸らす。二人の関係に興味はなかったが、なぜロケの映像を見たいのか、ようするにどういった交友関係なのか、どうせその話題には触れるだろう。

 燈子は頼るように美和を見て、美和が滔々と話しはじめた。


 早い話、彼女たちは同郷のなじみで、上京した燈子に美和が先輩風を吹かせているといった関係だった。


「美和さん、今回のお仕事ものすごく怖がっていて。それで、行く前に相談してくれたんです」


「はあ? 別に怖がってないし」


「そうやって強がるから誤解されるんですよ、美和さんは」


「……な、ん……うっさい!」


 ぼくは二人のやりとりに苦笑いする他なかった。

 ファッションや性格もちぐはぐだが、朝から地方の病院に迎えに行くほどなのだから仲は良好なのだろう。


「まあ、そんでこの子に相談してたんですけど」


 美和にせっつかれるも燈子はピンときていない様子。しばらくイライラした様子で美和が身振り手振りを繰り広げ、やっとのこと手を打った燈子は自らのスマートフォンの画面を差し出して見せた。

 この感じ、和やかではあるがどこかぼくと中西のようでもあった。裏を返せば、他人からは中西とぼくもこんなふうに見えるのかもしれない。


「実は、この写真なのですが……」


 燈子のスマートフォンは一昔――いや、三昔ほど前の機種だった。小さな画面の中に納まっているのは、夕刻の薄暗い森の中にたたずむコンクリートの箱である。『自殺アパート』だ。

 美和が撮影前に撮っていた写真だろう。彼女がしきりに言っていた送信先の友達とは、燈子のことらしい。


 真っ先に目に入ったのは、画面の右下でピースサインをとって笑っている美和だった。

 恐らく、だ。

 その顔は上から圧でも加えられたかのように潰れ、目の端と唇の両端がくっつくほどに歪んでいた。


「すごい、心霊写真じゃないですか……!」


「いえ、それだけではないんです」


「え……?」


 燈子の白い人差し指と中指が拡大操作した。

 三〇一号室の窓。四角い窓枠の中に、さらにアーモンド形の枠がある。


 良く見えず、眼鏡のブリッジを持ち上げ直し、覗き込む。

 アーモンド枠の内側は真っ黒だが反射した光からするに、曲面になっていた。


「――あ」


 目だ。

 異様に黒目が大きい、目だ。


 答えが出て、画面から顔を逸らし、すっと背筋を正した。

 血の気が引く、というよりも全身が生暖かく粟立った。ぼくの身体の芯はすっかり凍えてしまい、体が守ろうと血潮を巡らせたのだ。

 いつもなら不謹慎に他人事で、面白いオカルト話、メシのタネくらいに考えただろうが、そんな発想は一切浮かばなかった。真偽を疑う前に、本能的に戦慄していた。

 見てはいけないものを見た。その感覚だけがびっしりとこびりついた。


 歪んだ美和の顔。窓からのぞき込んでくる巨大な目。なにもかもが生理的に厭なバランスで構築された画像だった。


「これを見て急ぎ連絡しましたが、間に合いませんでした」


 ロケ中に美和にかかってきた電話は燈子からのものだったらしい。

 だが、ぼくにはそんなことはどうでもよくなっていた。


「あの、燈子さん――ええと」


角守つのかみ燈子です。燈子で構いません」


「燈子さん。間に合わなかった、とは……どういう意味でしょうか?」


「詳しいことは、わかりません。でも非常にマズいことになっているのは確かです。いまも」


「もしかして、霊感とかそういった力があるんですか?」


「そういった力……といいますと、たぶんそうですね」


 曖昧な言葉を、はっきりと返してくれた。

 そのちぐはぐな滑稽さに、先ほど叩きつけられた恐怖が少しだけ薄まった気がした。


「でも、期待しないでください」


 そう枕詞を置いて、彼女は自らのことを淡々と説明しはじめた。



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