三〇一号室


 これまでのひどい棒読みと打って変わって、悲鳴にも似た声だった。


「もうええわ! 除霊バトル、撮ろ! それでフィニッシュや!」


 興奮した中西はジェスチャー混じりで指示を出す。

 赤城は恐る恐る美和の背をさすった。


「どうしました?」


「……っていうの……あ――げほ、げほっ、くる、し……」


 赤城とそんなやりとりがはじまるやいなや、美和は黒い畳に両手をついて獣のように唸り、嘔吐しそうになっている。ぼくは赤城と視線をかわす。

 演技ではないのではないか。互いにそう考えていた。


 中西にどやされた腹いせに、美和はぼくたちを怖がらせるつもりがあったかもしれない。

 だが、喉の奥から捻りだされるごぼごぼといった気色の悪い音は、演技でできると思えない。


「大丈夫、大丈夫? 本当に具合悪いの? ねえ、救急車呼びましょう!」


「ちゃうやろ、本当にとか言うなや! おんどれは霊能力者やろ! 霊能力者、お経、お経して! 除霊バトルしろや!」


「そんな馬鹿なこと――!」


「あぁん? おんどれ、撮影舐めとんのか! フィニッシュが撮れるまで帰さへんからな! 絶対に帰さへんからな!」


 中西はこの異常事態を、むしろ好機ととったらしい。美和への心配も配慮も微塵もない指示は止まらなかった。

 そもそも演技か演技でないかなんて関係が無い。心霊ビデオに相応しい映像が撮れればなんだってよいのだ、この男は。


 赤城は一瞬目を泳がせたが、除霊バトルの映像を撮れなければこの場から逃げられないと悟ってか、懐から数珠を取り出すとじゃらじゃらとすり合わせ胡散臭い呪文を早口で唱えはじめた。

 ぼくは、美和のただならぬ様子にも、中西の外道ぶりにも呆然としていた。パニックになっていた。ここぞとばかりに無関係な傍観者でいたくて、ただカメラを覗き込んでいた。


「痛い……首、痛い……苦し、助け……て! いる、の……! いっぱいいる!」


 もしかしていままでの棒読みはこのアドリブへの布石だったのではないだろうか?

 美和が己の実力を示すために、最初からぼくたちを利用しているのではないか?

 彼女はいま、慌てふためいているぼくたちをほくそ笑んでいるのではないか?

 そうだったらどんなに良いだろう。

 少なくとも目の前で繰り広げられていたのは、まさしく除霊バトルだった。


 胡散臭い赤城の経だか呪文だかが室内に響く。


「これや、これやあ!」


 中西だけが小躍りしそうな声をあげる。

 美和の苦悶の咆哮がかき消す。

 ぼくは動けず、カメラの枠内から異常な光景を傍観していた。


 赤城の「ハアーッ」という一喝。

 かなりの力で美和の背中をバンバンと叩くと、とうとう彼女がげぼげぼと黄色い液体を吐き出しはじめた。周囲に吐瀉物の臭いまでもが巻き上がる。二重の汚臭に、喉に焼けるような胃液が込み上げてきたが必死に押し戻した。

 同時にぼくも赤城も、この有様が演技ではないと理解し、慄いた。脂汗が背中と腋から溢れ出している。

 ちらりと中西に目を向ける。ぼくたちの心情とは真逆に、目をきらきらと輝かせて拳を握っていた。


 誰も止めない。止められない。そんな状況下で、呪文と不快な吐瀉の音が続いていた。

 再び赤城が一喝。今度は背中をさすると、美和は暴れて赤城を振り払い、自分の吐瀉物の上を転げまわりながら奇声を上げる。


「美和ちゃん、美和ちゃん! しっかり、しっかりして!」


 もはや赤城は霊能力者役を止めていた。

 美和の肩を取り押さえ、抱きかかえる。びくん、びくんと痙攣を起こし白目をむいて、汚物の泡を口から垂れ流していた。


「あなたたち、見てないで手伝いなさいよ! 死んじゃったらどうするのよ!」


 赤城の言うことはもっともだ。

 この異常事態で、ヒーロー活劇を見る子ども同然の中西の表情は、不気味で見るに堪えない。

 じっとカメラを向けているぼくでさえ、赤城の目からしてみれば同じように気味悪い存在に映っただろう。


「手伝いなさいよ!」


 だが、この状況で中西の奴隷であるぼくに何ができるというのだ。

 撮影を止めてみろ、それこそぼくは仕事がなくなる。カメラを取り上げられる。人間社会との境界線がなくなってしまう。ぼくは人間社会が恐ろしい。死ぬしかなくなる。

 加えて、カメラを貫通するような視線で赤城に睨まれ、硬直さえしてしまった。


「もう! どいつもこいつも――」


 その時である。

 美和の口が、顎が外れんばかりに大きく開き、身体の中からごぼごぼと泡を立てるような音がしたかと思うと、天を仰いだまま赤黒い泡を吐き散らかした。

 さすがに赤城からも嫌悪に溢れた悲鳴があがる。彼女は頭からそれを被った。

 やがて美和の身体から力がぬけ、赤い泡を口から垂れ流したまま倒れる。


 しばらく美和が痙攣しているのを収めたところで、中西の場違いな声が高らかに、それはそれは気持ちよく響いた。


「はい、カットォーッ!」

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