探索


「ほんとだ~! コワ~イ! でも、勇気を出して中に入ってみましょう。レッツゴー!」


 ネガティブな考えが雪崩れ込みそうになったところで、キンキンと鼓膜に響く美和の声に引き戻された。

 『自殺アパート』に向かう背を撮り、そこで一端カットとなった。


 アパートは三部屋ずつ建ち並んだ棟の間が入り口で、そこから伸びる階段は大人がすれ違うのにやっとの幅だ。壁には白いペンキが塗られているものの外が見えないため、息苦しいほどの閉塞感がある。

 六つ並んだ郵便ポストは、当時の青色ペンキをわずかに残し、ほとんどが赤錆びていた。鍵はかかっておらず、フタが落ちているものもあるが中に入っているのはタバコの吸い殻などのゴミだ。壁にもスプレーでスラングや、肝試しでもしにきた誰かの名前が書かれている。


 ぼくは美和の前に回り込む。

 敷地内に入ると、気温が下がるのを感じた。草木が生い茂り夏の日差しに温められた土の上から、コンクリート造りに入ったせいだろう。心地よいとさえ思える涼しさだった。

 後ろ歩きで廃アパートの階段へ先行、彼女が通るべき道をカメラに取り付けた照明で照らす。

 一応、美和と赤城もペンライトをもっているが、ぼくのカメラに取り付けた照明に比べれば心もとないお飾りだ。

 それに、手持ちライトのほうが光量が強くては顔が闇に埋もれてしまう。アイドルを呼んだ意味がない。人は――少なくともぼくらの心霊ビデオなんかを買う人間は、悪趣味にも誰かが怯えているところが見たいのだ。うら若き乙女ならなおさらだろう。


 その生贄となったアイドル、美和はすでに「コワ~イ、やだ~」と棒読みを繰り返しながら、もどかしいほどゆっくりと歩を進める。

 木造建築の場合、足元が腐って崩れる可能性もあるのでそんな慎重さも必要かもしれない。だがここは鉄筋コンクリート造りだ。安全だと説明しようと思った一寸先。


「はよ行けや」


 中西のヤジが飛んだ。


「あたし、この角度だと一番映えるんですよぉ」


「うちの客におんどれのぶりっこなんぞ見に来とるヤツはおらんわ」


 気持ちの良いくらいばっさりと言った中西。

 対して、美和は一瞬ふてくされた顔つきになり、どすどすと歩きはじめる。

 撮影ペースを乱してでも、なるべくカメラに映っていたい、そんな魂胆で牛歩作戦とは呆れたものである。


 そこからの撮影はスムーズにだった。


 一階の両部屋は物がごった返していた。雑誌や飲食物のゴミが散乱しており、部屋は落書きだらけ。中には、黒ずんだ油が残る食器が無造作に床に置かれている。部屋全体から生ゴミのような臭いが漂っていた。

 片方の部屋にはマットレス、注射針や並んだ正の字など、別のおぞましい出来事を想像させる残留物もある。ようやく美和が「気持ちワル」と棒読みではない感想を口にした。ここは度の過ぎた不良のたまり場にされていたのかもしれない。

 部屋は2LDKの和室。左右の部屋同士シンメトリーであるが、全室この間取りのようだ。


 二階の両部屋はやや様子が異なっていた。

 こちらは残留物はまるでなく、解体工事直前。天井は黴のせいか黒ずみ、埃のべたつく臭いが充満している。


「うええ……さっきの部屋よりも変な臭いするんですけど……」


 美和がオフレコと言わんばかりに声を潜めた。


 壁は相変わらず落書きだらけだが、内容が一階と異なり色は赤と黒のみ。気取った芸術性も自己主張もなく"助けて"、"いる"、"三階×"という意味ありげな文字や黒い手形が残っていた。

 ネットに写真が掲載されていたのはこの部屋だった。

 一階の様子を写真におさめたところで、身の危険は感じても心霊とはいえないだろう。ゆえに、らくがきも心霊を求めた者が捏造した痕跡なのかもしれない。であればぼくの先人の仕業だ。ぼくはすっかり観光名所にやってきた気になっていた。

 中西も同じ想像に至ったらしいが、彼は同族嫌悪か眉間にシワを寄せている。


 探索は続いた。

 その間にも中西が派手な音をたてては美和が下手くそな演技で怖がる。

 赤城は、霊がいるなどと言っては曖昧なお経を唱える。

 そんな茶番を繰り広げながら、ぼくたちは二階から三階へ続く階段に差し掛かった。


 ちょうどそのタイミングで突然、狭い階段通路にアップテンポな曲が流れはじめた。電子音はコンクリートの壁を反響していく。場違いに明るい曲調がむしろ不気味で、空気は一瞬にして凍りついた。

 どこかで聞いたことのある曲だったが、思い出す前に事態が飲み込めた。持ち主が動いたのだ。

 なんのことはない、美和のスマートフォンの着信音だった。


「収録中やぞ! 電源切っとけや、ボケが!」


 凍りついた空気を打ち砕く中西の怒号が廊下いっぱいに響き渡る。美和と中西の間に、赤城の巨体が挟まっていなければ間違いなくアイドルの顔面を拳が襲っていたことだろう。

 カット必至な中西の罵倒に対し、美和は謝るどころか、


「はあ? そんな指示されてませんけど」


 といった見事な逆ギレを披露する。

 さらに数回、言葉の応酬があって、渋々と言った様子で美和が着信を保留し、電源を切った。


「ったく、わけわかんねー。どうしてもケータイ切らなきゃいけないなら、事前に言ってもらわないと困るんですけど。あーマジ迷惑。この人からそういうこと言われてませんし。連絡系統、きちんとしてもらえませんか」


 そしてカメラを――というより、ぼくを指した。

 そうきたか。


 移動中、中西がぼくに暴力を振るっていたところを見た彼女は、ぼくに同情するどころか、見下していい相手として認識したらしい。

 こうなると頭に血が上って判断力が落ちた中西はまんまと美和の思惑に乗せられる。


「吉瀬! おまえ、コイツに出演依頼出したなら責任もって手綱握っとけや」


 双方から責められる形となったぼくは、内心で"こんな安い心霊番組に一生懸命になってご苦労様ですね"と嫌味を吐きながらも口にすることはぐっとこらえる。

 ぼくの目的は問題も起こさず、さっさと収録を終えて、規定通りの給料をもらい、つまらない日常を続行することだ。


「はい、すみません」


 目標もなければプライドもないぼくが我慢していればいい。無感情に返事をした。

 自分でも、ロボットじみた返事だな、と思ったその矢先だった。

 階段をあがりきり三階の西部屋――三〇一号室の手前まで上ったぼくは、ドアがはずれた入り口を映し「うぅわ」と情けない声を漏らしながら思わずカメラを逸らした。さらに、後ずさろうとした足がもつれ、尻もちをつく。


「今度はなんや!」


 一つ下の折り返し地点から中西が怒号をあげる。

 ぼくは見たまま感じたまま答えた。


「あの、誰かいて」


 そうだ。

 部屋の中に誰かを見た気がした。誰かがいる、強烈にそう感じた。

 呼吸を整えながら、目の奥に焼き付いた映像を思い起こす。頭の位置がぼくと同じくらいの人型のシルエットが部屋の中で佇んでいるように見えた。

 だが、頭の中で言葉を反芻しても我ながらなにを言っているのかわからず、部屋の中を冷静に覗き込み――丹念に寒気をやり過ごしてから訂正する。


「奥に、鏡が……」


「ああん? おまえ自分で置いた鏡にびびっとんのか」


 ぼくは説明に困って、小道具を入れていたボディバッグからアンティーク調の丸鏡を取り出した。枠の装飾が派手やかでいかにも曰く因縁がありそうなデザインであるが、その実態はリサイクルショップで購入した額縁に近い形状の鏡を取り付けただけの、ぼくの自信作だ。本来ならここで一端カットして、三〇一号室にこの鏡をセットする予定だった。

 美和と赤城も、事態が飲み込めたのだろう。表情を険しくする。


 妙なことに、部屋の奥にはすでに姿鏡が寂しく鎮座していた。距離感にしてみれば、玄関からまっすぐ先、居間の突き当り。ぼくはそこに映った見覚えのある男と目が合い、みっともなく悲鳴を上げたのだ。

 その奥は窓枠となり、割れたガラスの向こうから、逢魔が時の生温い風を引き込んでいた。


「なんや、手間省けたやんけ」


 中西だけはその調子だった。


「おおかた、誰かが悪戯で置いたんやろ。あるある」


 自信満々な彼の言葉を鵜呑みにしたのか、赤城は安堵の溜息を零し、美和に至ってはぼくに対する嘲笑を含んだ表情で階段を上がってくる。


「ヤラセなのにカメラマンさんが一番ビビッてんの笑う~!」


 もはや彼女にはとりあわず、ただカメラを回すことにした。

 もちろんおくびにも出さないが、徹夜して作った愛着ある小道具が使われないこともまた、ぼくにはショックだった。


 件の部屋は最後に回し、先に三〇二号室を探索する。


 鉄のドアを開いて早々、ぼくたちは困惑した。

 玄関口には靴が散乱していた。男物女物、スニーカーにロングブーツ、子どもモノまで。どれも新品などではなく、むしろ踵が履き潰されたものまであった。繁盛している診療所のようだった。

 それらを跨いで部屋の中を見ると、やはり生活感がなくさっぱりと片付いている――そんな場所にダンボールが置かれ、溶けかけた蝋燭が何本かと、ピンク色の携帯電話が一つ置かれていた。

 携帯電話は折り畳み式の丸いフォルムで、十年くらい前の型だろう。


「それ、ひらいてみい」


 中西の指示に嫌な顔をしながらも美和が拾い上げる。相当時間が経過しているに違いない。開いたものの、なにを押しても起動しなかった。


 ふと、厭なことに気が付いた。

 誰かが悪戯で物を置いた。その可能性は否定できない。

 だが、蝋燭や携帯電話はまだしも、姿鏡などの大物や、大量の使い古した靴をわざわざ置くだろうか。

 ぼくが丸鏡を選択したのも持ち運びのためだ。加えて、いまのところこの廃アパートには家具が残っていない。外から運び入れたのなら、何か理由があったのだろう。たとえそれが悪戯のためであっても、その執念に薄ら寒いものを感じた。


 ぞろぞろと三〇二号室から出たところで、ぼくたちは再度たたらを踏んだ。

 三〇一号室の玄関を境目に、異様な臭いが佇んでいる。二階で嗅いだものとは種類が異なる、鼻だけでなく全身に訴えかけるような臭気だ。


「ねえ、これって……」


 廃墟では稀に遭遇する臭いだ。猫や狸が忍び込んでいるのだろう、他の動物を食べた残骸や、それこそ捕食者側も死んで腐っている場合があるのだ。

 いずれにしろ、その臭いは独特で元を見ずともわかる。

 汚物と腐敗の臭い。鼻の奥をかき乱され、胃を握られるような不快感。本能が危険を訴えて身がすくむ感覚さえ伴う。

 死臭だ。


「どうせ猫かねずみやろ。はよいけや」


 最後尾で道をふさぐ中西が顎で示す。

 赤城は諭すように美和に頷いた。

 美和も覚悟がついたのか、潜水でもするかのように大きく息を吸い、暗い部屋の中に踏み込んだ。


 一見して他の部屋同様に生活感はなく、違いと言えば寂しく鏡が立っているだけ。最上階だからだろうか、他の部屋とは異なり天井がやや高く、横切る長押の柱はあるものの変わったところはない。

 ひとしきり見渡し、おのずと全員が鏡の前に立った。

 なんのことはない。安っぽい姿見だった。ぼくも一人暮らしをはじめた頃に似たようなものを五千円くらいで買ったことがある。半年もしないうちに自分には必要ないと悟って捨ててしまったが。

 とりたて特徴もない縁には、装飾のかわりに黒くねばついた汚れがべったりと付着している。埃と油の混合物だろう。その下にかろうじて本来の飴色の木目が覗いていた。


 沈黙が続いたので、ぼくはコメントを求め赤城にカメラを向ける。

 赤城も霊能力者役ということを思い出し慌てて口を開いた。臭いが気になるのか、声もどこか鼻声だ。


「あ――これが噂の鏡ですね。とても強い妖気を感じます」


 妖気とは?

 赤城はいつの間にか設定を忘れて退魔師になっていた。幽霊と妖怪をごちゃまぜにしているのだろう。

 なんにせよもう少し気の利いた、せめてバリエーションの違うコメントが欲しいところだった。


 鏡は、神聖なもの、あるいは魔力を秘めるものとされており、古来より神秘の対象だ。

 日本の三種の神器、鏡の盾によって倒されたメデューサ、川面に映った自らに見蕩れるナルキッソスもまた鏡の神話と言えるだろう。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』もその名の通り、鏡をモチーフにしている。

 現代オカルト的な観点からいえば、鏡の奥は別の世界、パラレルワールドが広がっていて映っているのはまた別の自分、といった類の都市伝説はいくつもある。なかでも有名なのは二十歳までにこの言葉を覚えていると死が訪れるという『紫の鏡』、向かい合わせの鏡の中に悪魔や未来の自分の姿が見えるなどといった『合わせ鏡』といったところか。

 ややマイナーではあるが戦時中のナチスドイツによる秘密実験で、鏡にむかって「お前は誰だ?」と言い続けた結果、精神が発狂したという噂も出回っている。

 実際にぼくが耳にしたものならば、新居の鏡の配置が悪く霊道に乱れが生じて悪霊を呼び寄せていた、なんて話もあった。

 いうなれば鏡は、いつの時代も人に真実を見せると同時に、オカルトという虚像をも生み出してきた神秘の存在である。


 誰のいたずらか知れないが、件の部屋に鏡が置いてあった。

 このシチュエーションに対して霊能力者役として強い警戒を見せて欲しいところではあったが、彼女は霊能力者ではなくただの役者。オカルトに興味のない人間からすればただ家具の一つにすぎない。

 むず痒い気持ちを飲み込みながら、ぼくは事の成り行きを見守ることにした。


 妖気を感じ取り表情を引き締めた霊能力者兼退魔師・赤城リツの横で、美和が顔をしかめる。


「つか臭いの、この鏡じゃないですか。鏡の中に臭いの素があるみたいな……」


 こちらはなかなか想像力のあるコメントだ。もちろん、鏡の中には照明の反射光と室内の臭気に顔をしかめるぼくたちの像があるだけだ。

 鏡の後ろには窓があり、じっとりと入り込む生暖かい風が腐敗臭をかき回していた。口から入ってくる空気が喉から鼻腔を侵食する。


 おかしい。

 美和の言う通り、鏡の中から臭いが漂っている気がする。


「あっ」


 なにか見つけたのか、美和が鏡の中を指差した。しかし、続きがない。

 赤城は返答に困りながらも


「この臭いも、悪霊が近くにいるサインです」


 と推し進めた。

 ぼくはカメラを向けると、美和が背中を向けていた。あれだけ映ることが好きで不自然なほどレンズに愛想を振りまいていたのに。


 今度はカメラをそっちのけにして、きょろきょろとあちこちを振り返り見たと思えば、突然しゃがみ込んだ。

 あー、うー、とだらしなく唸りはじめる。


 ぼくたちは顔を見合わせた。

 台本のスケジュールでは、〆のトークの後に美和が取り憑かれて除霊バトルを繰り広げることとなっていた。

 美和のことだ、段取りを忘れてしまったのだろう。


「勝手にすっ飛ばすなや。一旦カット! カットや!」


 しかし、美和は立ち上がらず、ぼそぼそと膝の間で呟いていた。


「だれ……だれ……いるの」


 これまでのひどい棒読みと打って変わって、悲鳴にも似た声だった。

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