第333話 地下研究所のジャシア

 「どうも研究所が騒がしいんだぜ」

 ジャシアは御粥おかゆの椀を手にして耳を立てた。


 「何かあったのでしょうか?」


 ベッドで身を起こしているのは人間の姿に戻ったエチアである。


 戦争に駆り出され、獣化兵を従えていた頃のエチアよりも少し幼くなった印象があるのは無垢な精神状態に戻ったからだろうか。でも、これが本来のエチアなのだろう。愛らしい面立ちの美少女で、いかにもカインが惚れそうな、つい守ってやりたくなる雰囲気がある。


 「後で調べてくる、まずはこれを食っちまうんだぜ」

 ジャシアはスプーンですくった粥を「あーん」と開いたエチアの口に運んだ。


 培養カプセルとかいう棺に入って数週間、人間体に戻って出て来たエチアだったが、記憶が曖昧で何よりも筋力低下が著しかった。そのため、今は筋力をつける薬が入っている特製の食事を提供されている。


 不思議なことに研究所の者たちはジャシアとエチアを敵視するわけでもなく、当たり前のように受け入れてエチアを治療し、その後の療養まで面倒を見ているのである。

 剣で脅してでもエチアを治療させようとしていたジャシアも拍子抜けだった。


 「潜入してきたんだぞ? どうしてこんなに面倒見が良いんだぜ?」と何度も聞いてみたが、どいつもこいつも無表情な仮面のような顔で「アフターサービスは大事です」と同じ答えを返すのみだ。


 何かにつけて彼らの口から出てくるこのアフターサービスという言葉が意味不明だ。

 わかったことは、どうやらジャシアには理解不明の行動原理が働いているらしいということくらいである。


 ただ、所長のニドルとかいう白衣の男だけは他の者とは違う話し方をする。


 「エチアという成功体を失うのは勿体ない」とか、「エチアの子孫がどう進化するか興味深いのだ」とかぶつぶつ言っているのだ。


 つまりエチアの獣化は完全に治ったわけではないらしい。

 獣化本能を制御できる新しい状態に移行したとかなんとか難しい事を言っていたが、要するにエチアは自分の意志で姿を変えられるようになった。


 今後、エチアが人間性を失って獣そのものになることはもはやない。カインの望む治療薬や治療方法は見つからなかったが、これはこれで現状では最善の状況だろう。


 やがてエチアはお腹がいっぱいになって眠くなってきたようだ。


 「エチア、少し寝るんだ。私は様子を見てくる」

 「うん、早くもどってね」

 エチアはそう言って横になった。


 エチアはカインがこの大陸に来て初めて好きになった少女だ。だからカインのために彼女を必ず助けると誓った。


 私はベッドの上でカインを快楽死させようとして返り討ちにあって、本気でカインに夢中になってしまったのだ。二人が愛を交わしたのはわずかな期間だったが、カインには一生分の女の幸せをもらった。


 私たち獣人は本当に愛した男には何があっても一生尽くす。それが一族の誇りでもある。

 あの素晴らしい日々、カインは最後には私を帝国の傭兵と知りながらも信頼し、エチアの事を打ち明けてくれた。だからその信頼は裏切らない。


 愛しいカイン……。お腹の子がその証だ。

 どこかできっとまた会えるはずなんだぜ。ジャシアは優しくお腹を撫でた。


 カインと別れてからずいぶん経つが、幸いにも囚人都市はあのあとすぐに解放されて新王国の首都になった。あのままカインが囚人都市にいたならば、おそらく生き延びている可能性が高い。


 カインが今、どこで何をしているか分からないが、生命力が強く、不思議な魅力を持つ男だ。

 新王国のどこかの街で暮らしているか、エチアの病を治す手がかりを探して旅に出たかもしれない。


 きっとまた会える、絶対にエチアをカインに合わせるんだぜ。

 ジャシアは寝息をたて始めたエチアの横顔を見て、そっと部屋を後にした。


 管理棟に顔を出してみると何か慌ただしい。ただ事ではない気配だ。


 「未来からの時空振が観測された! 地下ブロックを王宮から切り離し、最深部のコアに移行する準備を急ぐのだ!」


 研究室の中央監視室、大ドームの部屋に所長のニドルの姿がある。その周囲では白衣の人形たちが慌ただしく動いている。


 「いったいどうしたんだぜ?」

 ジャシアは声をかけた。

 ここの連中はよそ者がいても別に気にもしないことを学習したからだ。地上とはまったく違うルールで動いているらしく、遠慮したり警戒したりする必要はない。


 「お客人、すまん。どうやら緊急事態だ。せっかく再調整の結果を観察できる良い機会だったのだが、研究所が最深部コアに格納される前にお二人にはここを出て行ってもらう。あそこは普通の者はとうてい生きられない」

 ニドルはわざわざ作業の手を止めてジャシアの問いに答えた。人との会話は人形への指示よりも優先するかのようだ。


 「緊急事態が迫っているのか? 妙な雰囲気はそれか?」


 「未来でこの地下研究所の深度にまで影響を及ぼすほどの破壊活動が観測された。我々はこの施設を未来永劫守り抜くことを使命にしているのでね。残念だが研究所を王宮から切り離し、確実に安全な深度にまで施設を移動させる。もしかするとそこで我々は再び深い眠りに付く必要があるかもしれないのだ」


 未来の事までわかるのか? とジャシアは目を細めたがこの研究所なら何でもありそうだ。


 「所長! 第205ブロックの起動輪が動きません、軸が歪んでいるのではないでしょうか?」

 奥の作業台にいた白衣の男が叫んだ。その周りで一斉に動きを止めた男たちがまさしく人形のようだ。


 「ふむ、移動できないブロックは置いて行こう。移動可能なブロックのみを安全深度まで移動させる」

 「はい! 切り離します」

 ニドルの指示を受けて男たちが再び動き出した。


 「私たちが出て行くのはいいが、いったい地上では何がおきているんだぜ? 教えてくれたっていいだろ?」

 ジャシアはニドルの肩をつかんだ。


 「ここは多少時間の流れが地上と異なることは以前説明したな? シズル大原を支配下におさめた真魔王国軍がいまや黒鉄関門に迫っている。帝国はここが正念場だ」


 「真魔王国? 大魔女ミズハが興したって国が攻めて来たのか?」


 「真魔王国だけではない。真魔王国に呼応した同盟国が援軍を送ってきた。帝国の敵は連合軍だ」

 「ふぅん、そうかい」

 思った以上に事態は急変しているらしい。

 エチアの治療で地下に籠っている間にも地上では目まぐるしく情勢が変化しているのだ。


 「帝都が戦場になる? それで慌てて地下深くに研究所を隠すってわけかい?」


 「うむ。未来からの時空振が感知されたことを考えれば、これから起こる事態は想像がつくからな……」

 ニドルは操作盤に向き直って手を動かし始めた。


 「帝国がヤバいってわけだな?」


 「真魔王国には大魔女ミズハの他にも恐ろしい黒衣の魔女がいる。それに新王国も軍を派遣してきた。先日真魔王国と新王国がシズル大原で正式に軍事同盟を結んだのだ」

 パチパチといくつも並んだ四角いボタンを凄い速さで打ちながらニドルが答えた。


 「ほう。正式ってことは同盟のためわざわざ新王国の王女がシズル大原まで出て来たって言うのかい?」


 「いや、全権大使だ。王女の代理はカリンとか言う奴が務めたらしい?」

 「カリン?」


 「そうだ。カリン・マナ・アベルトという人間の男だ。夜だけ魔王と呼ばれるほどの絶倫で英雄シードの保有者だ。なんでも次期国王らしいぞ」


 ブッーーッ! 

 突然、ジャシアが吹いた。その唾を横顔に受け、さすがのニドルも眉をひそめた。


 「そいつは、カリンじゃねえ! カインだ!」

 ジャシアは叫んだ。


 「しかもなんだって? 次期国王? 聞き間違いか?」

 「情報によれば、そいつは新王国の王女の婚約者らしいぞ」


 「ありえる、あのカインならあり得ない話じゃないんだぜ!」 

 ジャシアは妙に納得した。


 相手が女なら、王女だろうが何だろうがカインの夜の魔王に魅了されない女はいないという確信がある。もちろん自分がそうだからだ。


 「同盟軍ってことは、黒鉄関門攻めにカインも来るんだな?」

 「もちろんそうだろうね」

 ニドルはハンカチで顔をぬぐった。


 「カインが来る! やっと会えるんだぜ!」

 ジャシアは目を輝かせた。

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