第324話 クサナベーラの屋敷

 コトリと物音がした。

 「誰ですか?」


 「私です。クサナベーラですわ」

 その声に安心したのか、ドリスは扉を開いた。


 ここはクサナベーラの邸宅に建つ使用人館の一室である。

 本来は住み込みで働くメイドたちのための館だが、このたびの帝都でのごたごたのせいで多くのメイドが実家に戻っており、今はほとんど人がいない。


 ボロボロになったボザルトがドリスを背負ってベラナと共に屋敷の前に姿を現した時は、さすがにクサナベーラも仰天した。まさかボザルトがこんなに早く尋ねてくるとは思わなかったのだ。


 クサナベーラはボザルトに住所を書いたメモを渡したので屋敷の場所が分かったのだろうと思っているが、実はそうではない。


 野族の二人には住所とは何なのか、その概念が分からない。結局、二人がクサナベーラの屋敷にたどり着いたのはベラナの特殊能力のおかげだった。


 ベラナたちは、クサナベーラの馬車を引いていた魔馬の足跡を追跡してきた。

 帝都の大通りを往来する魔馬は多い。その中からクサナベーラの馬車を特定することなど人間には不可能だ。しかし、野族のベラナには野生の勘をベースに残留思念やわずかな気配を嗅ぎ取って獲物を追跡する能力がある。過去の特定の場面を見る能力にも近い。数週間以上前にそこを通った獲物を追跡できるのだ。


 「どうですか? 身体の具合は?」

 「クサナベーラ様のお陰でだいぶ楽になりました」

 ドリスはベッドに腰を下ろしていた。


 ドリスが運び込まれた時は、原因不明の頭痛でその苦しみ様は凄まじいものだった。それはドリスの魂を縛っていた珠の崩壊による副作用だったのだが、そんな事を知る者はいない。


 結局、クサナベーラ家お抱えの一流の医者が付きっ切りでドリスの治療にあたり、そのおかげでドリスは精神崩壊することなく、痛みを耐え抜くことが出来た。クサナベーラが苦手とするあの無口な頑固者の医者がいなければドリスは間違いなく狂い死にしていただろう。


 クサナベーラはベッドの端に座る少女を見た。体調が回復して食事をとれるようになったので、少しこけていた頬も元の丸みを取り戻したようだ。少し幼いところがあるが美しい少女で星姫コンテストでも優勝を狙えるレベルである。


 「それで、ドリスさんの今後のことですが、身体が治ったら貴女は国に帰るのですか? ボザルト様とご一緒に?」

 「はい。まだ修行中の身なのに無断で国を出て来てしまって。心配している者も多いと思うのです」

 実はボザルトが蛇人国のミサッカに腕輪通信で「ドリスを無事に保護した」と伝えてあるのだがドリスはまだそれを知らない。


 「修行中……ですか?」

 何の修行なんだろう、それにボザルト様とはどんな関係なんだろう、クサナベーラが口を開こうとした時。


 カチリと鍵を開ける音がして扉の向こうからベラナが顔を出した。ボザルトの凛々しい顔がその後に続いて現れクサナベーラは思わず破顔する。


 「おや、クサナベーラ。来ていたのだな」

 相変わらず感情をあまり表に出さないクールな声でボザルトはなぜか瞳を輝かせたクサナベーラと視線を交わす。その真っすぐな瞳に射抜かれたクサナベーラの耳が赤くなった。


 「ドリス! 貴女の好きなお菓子を買って来たわよ。ちょうどクサナベーラ様もいらっしゃるし、みんなで食べない?」

 ベラナが袋一杯の焼き菓子を見せる。

 ふわっと甘い香りが部屋中に立ち込め、ドリスは固い表情を緩めた。


 「それでは、私がお茶をれますわ」

 クサナベーラがいそいそと戸棚に向かった。


 「いえ、私がやりますよ」

 「そうおっしゃらずに、ここは私に淹れさせてくださいませ」

 ベラナを制止してクサナベーラは微笑んだ。


 屋敷に匿ってまもなくの頃にベラナが作った恐ろしい料理や、どろどろのヘドロのようなお茶を目撃したのがトラウマだ。

 美味しい食材を使ってあそこまで恐怖に満ちた暗黒物質を作り上げるとは、ある意味特殊な才能かもしれない。

 ベラナの作った恐怖の粘塊物を文句を言いながらも一口でも頬張るボザルトの優しさが印象的だったのだが……。その後、腹痛で七転八倒するボザルトが悲惨すぎた。


 ここ数日での生活で、クサナベーラはボザルトとベラナが誰も入りこむ余地がないほどの恋仲なのだと気づいた。


 しかしそこに嫉妬心は無い。いや、無いと思い込むことに決めた。


 貴族令嬢として常に完璧を求められてきた。

 どんな場面でも体面ばかり考えて行動する癖がついていた。

 そんな自分がまさかこれほど熱く純粋な思いで行動できるなんて知らなかった。


 クサナベーラにとって、そのことに気づかせてくれたボザルトは永遠に初恋の相手なのである。そしていつの世も初恋は実らないものと決まっている。クサナベーラが好きな恋愛小説のようにはいかない。有力貴族の令嬢である彼女が嫁ぐには相手の身分や立場も問題になるのだ。


 これ以上深入りしてはいけないと思いながらクサナベーラは彼の完璧なイケメンぶりにいつの間にか見入ってしまい、毎回頬を染めてしまうのだった。


 じきにお茶が入り、テーブルの上に焼き菓子が並べられた。


 「そう言えば、クサナベーラ様はどうしてここに? 今日は街へ買い物に行くとおっしゃっていたはずですけど」

 ベラナが尋ねた。


 「ええ、そうでしたわ。実は街で良い物を見つけましたの。何でも、今帝都で話題になっている一品で、アパカ山にある神秘的な街に女神様がご降臨された記念とか。……これですわ」

 そう言ってクサナベーラは布に包まれた四角いものを取り出した。


 「女神様のお力でドリスさんが早く良くなりますように、と思いまして」と布を取りはらうと出て来たのは絵画である。


 「これが“残念な鼠と慈悲の女神”という絵ですわ」

 見返り美人の少女として描かれた女神様とその足元で四つん這いになって無様に嘔吐している鼠が神話の一シーンのように美しい筆致で描かれている。


 「ほぉ、どこかで見たことがあるような光景だなぁ」

 「ふーん。そうなの?」

 ベラナはパリパリとお菓子をかじった。


 「ほら、ここを見てくださいませ。この鼠さんが吐いているのは人々の罪汚れ、病や災厄なのです。女神様のお力で災いや病はその身から浄化される、という寓意なのだそうですわ」


 「いいのか? この絵は高かったのではないのか?」

 「いえ、ボザルト様のため……。いえ、ですから、えっとドリスさんのためですから」

 

 「ありがとう、君には感謝しきれない」

 そう言うとボザルトは不意にクサナベーラの手を取り、その指についていたお菓子のカスをチュっと食べた。


 わわわわわ……!

 私の手にキスだなんて! クサナベーラはあまりのうれしさに真っ赤になった。

 

 「えっと、ほら、この女神様、何だかどことなくドリスさんに似ていますわ。絵を見た瞬間にこれは買う運命なのだとピーンと来たのですわ。ここに飾っておきますね」

 クサナベーラは戸棚に絵を飾ると、手の平で赤くなった顔をひらひらと扇いだ。


 「それと、これを」

 そう言ってドリスの胸に銀の首飾りをかけた。

 「これは……?」

 「お守りです、私が作ったものなので少し不格好かもしれないですけれど」

 首飾りの先端には槍を模した飾りが付いている。見ればわかる。これはボザルトの槍だろう。


 「ありがとう、素敵です」

 ドリスは気にいったのか、その銀細工を大切そうに手の平に乗せ、そっと撫でる。


 「それでクサナベーラよ。ベラナとも相談したのだが。迷惑をかけていつまでも世話になっている訳にはいかない。ドリスの体が旅に耐えられるくらいまで回復したら、立ち去ろうと思うのだ。帝国と新王国の対立だけでなく、なにやらシズル大原でもきな臭い事が起きているらしい。時期を逃すといつ帰れるかわからなくなりそうなのだ」


 「えっ? いいえ、迷惑なんてことはありませんよ。ドリスさんが回復するまでなんて言わず、お好きなだけここに居てくださってよろしいのですよ!」

 「そうもいかぬ。実はドリスはある国を継ぐ身、そのために一刻も早く国に戻らねばならないのだ。既に国元とは連絡をとってある」


 「やっぱりそうだったのですか!」

 只者ではない美しさのドリスが王女様なら、やはりボザルトやベラナもその国の王の一族に違いない。


 きっと何らかの事件で誘拐されたか何かした王位後継者のドリス王女を探して国元を離れた聖騎士なのに違いない。それならあの強さと礼儀作法の見事さの説明もつく。


 「ボザルト様、またお会いできますよね……!」

 クサナベーラは思わずボザルトに抱きついた。

 ベラナはボザルトの妻になる女性だろう。二人の様子を見ていればわかる。それにこの初恋は実らないと分かっている。

 しかし、彼が王族に仕える騎士なら一夫多妻はごく普通だし、ましてやどこか辺境の国の騎士に帝国の貴族の娘が嫁ぐというのは政略的にもアリではないだろうか。


 「むむむむむぅ!」

 ボザルトの顔を惚れぼれと見上げたクサナベーラの様子を目撃したベラナが頬を膨らませる。

 最近は人間の美醜が分かるようになってきた。だからベラナの目の前にいるクサナベーラは間違いなく美女だと断言できる。

 しかも彼女がボザルトに惚れていることくらい見ればわかるのだ。

 

 パリッ、と大きな音を立ててお菓子をかじるベラナ。


 危機が間近に迫っていることに気づかず、クサナベーラに抱きつかれたボザルトはこれも人間の挨拶の一種なのであろうかと首をひねった。

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