第307話 黒鉄関門戦の行方

 あれ?

 シュトレテネーゼは立ち止まった。


 一面に綿のような雪が音もなく降り積もっている。

 吐く息は淡白く、手足の感覚はない。

 鏡のような氷の上に真っ赤な血が広がっている。


 白と赤の世界


 何が起きたんだろう?

 どうして頬が冷たい?

 痛みはない。

 この血は……誰か犠牲者のものか……

 いや、あの時の神竜、時空裂の神竜が吐いた血だろうか……


 こうして迎える朝は初めてではないが、以前より周りの景色がはっきりしている。


 いつの間にかシュトルテネーゼは裸足で歩いていた。

 凍った地面に触れると、湯気を立てて氷が溶ける。


 これは夢だわ。

 長い長い氷の洞窟の向こう側に光が見え始めた。

 氷の壁を見ると血まみれの人間の死骸がいくつも凍らされている。


 多くの犠牲者の血塗られた道を歩けるものなら歩いて見せよという啓示なのでしょうか。この先には何が待っているのでしょう。


 でも、これはこれまで既に何度も何度も歩いて来た道です。

 こんな恐ろしい光景を見せられたからと言って立ち止まることはもうありませんわ。全ての輪廻世界での業を背負ったとしても、私の道は真っすぐ貴方に続いているのです。


 エクスト様、今度こそ貴方の妻になって、共に生きる道を見つけたいのです……。


 シュトルテネーゼとしての意識が戻ってきた。


 霧が晴れるように様々な記憶が混濁しなくなってきた。

 そう、様々な世界で私は殺し、殺され、けしてエクスト様とは結ばれることがなかった。でも今度こそは間違えない。

 運命を捻じ曲げ、ここまで私を導かれたのは間違いなくエクスト様の強い想いのなせる技だ。


 世界を壊してでも私を助けるという強い願いを感じます。

 「エクスト様…………」



 培養液の中でわずかに開いた目に映った二つの黒い影はシュトルテネーゼを見下ろしていた。ここは新王国との戦場ではないらしい。ああ、ここは……。

 いつの間にまたここに戻されていたのか、ここは帝都の地下にある研究室なのだろう。


 「カルディ様、やはり原因はNo2でした。No2の覚醒レベルを下げ、意識誘導することで今度こそ調整がうまくいきました。ようやくシュトルテネーゼ様の魂に混入していた余計な記憶の切除にも成功しましたので不安定要素はもはやありません。後はゆっくりと時間をかけて完全覚醒していただくだけでございます」

 白衣の男はそう言った。


 「無理に起こすなということだな? ニドル所長」

 初老の男が見下ろしている。


 「はい、今はまだ眠っておられますが、覚醒レベルが上がって一度自然に目覚めれば、今度こそシュトルテネーゼ様の状態は完璧になるはずです」


 「よくやったぞ。オズル様もお喜びになられる。シュトルテネーゼ様こそオズル様がずっと待ち焦がれていた御方、オズル様の正妃になる御方なのだからな」


 二人の声が遠くなってシュトルテネーゼは再び深い眠りに落ちた。


 ー---------


 「ひけっ! ここはあの岩場までひくんだぜ!」


 ジャシアの叫びも黒鉄関門からの激しい砲撃に掻き消されてしまう。一緒に突撃した獣化部隊はほぼ全滅だ。傭兵部隊だけが前方にぶ厚い防御魔法を展開して黒鉄関門からの一斉射撃をギリギリで耐えていたが、魔力もそろそろつきそうだ。


 周囲の傭兵部隊の兵たちも情勢は分かっている。あちこちの部隊が撤退行動に移り始めているのがその証拠だ。


 「ジャシア隊長! 本隊の被害も甚大のようです! こちらの厄兎大獣隊の攻撃で城塞の一部が崩壊しましたが、敵の砲撃が凄まじく誰一人城塞までたどり着けないようです」

 あちこちに火傷を負ったサーリラが傍らに滑り込んできた。


 「他のみんなはどうした? ウッ!」

 前方に着弾した砲弾の威力で岩クズが飛び散ってくる。既に息をするのも困難なほど周囲の大地は溶け、その熱で喉が焼けそうだ。


 さすがは黒鉄関門、その砲撃は圧倒的だった。作戦は無謀だったのだ。ジャシアは顔面に付着した仲間の血を拭って前方をにらんだ。


 「はっ、カーラ副官とドックの顔が見えません。おそらくは砲撃の直撃を受けたかと……」

 「そうか、逝ったか……」


 「悲しんではいられません、ここに入れば我々もいずれ同じ運命です」

 「そうだな、急いで逃げるんだぜ」

 「はい」

 ジャシアとサーリサは身を低くしながら後方の岩場へと後退した。


 夕暮れが近づいたころ、ようやく恐ろしい砲撃音は止んだ。

 傭兵部隊の残存勢力が集結した岩場は、峡谷の段丘の影になっており黒鉄関門からの射線からは外れている。


 そこは元々傭兵たちの物資補給地点になっており、様々な種類の馬車や荷車等が整然と並んでいた。その補給基地の灯りを見つけた敗存兵たちが徐々に集まってきており、周囲の仮設テントは負傷兵であふれている。


 獣天や鳥天が本陣を置いた高台の上の戦況はどうなっているかはまったく分からない。黒鉄関門の射線を横切ってこちらから連絡を取ろうという気力も失われ、討伐軍の指揮系統はもはやズタズタである。


 ジャシアの傭兵団も10人中、副官のカーラ嬢、ドック、コピオの三人が未帰還で、さらに二人が手足を失うほどの重傷だ。


 「ジャシア殿、偵察に行かせた若いのが帰って来た。ちょっと話がある、来てくれないか?」

 昔からの傭兵仲間の老兵がジャシアのたき火に顔を出した。


 北星の闘士団と呼ばれる古参の傭兵団のリーダーで名前は誰も知らない、仲間から老兵と呼ばれる男である。


 「ここでは不味い話か?」

 嫌な予感に囚われながらジャシアは空になった皿を脇に置いた。


 「うむ、向こうに傭兵団長たちを集めておる。来てくれ」

 「わかった」


 ジャシアが迷彩布のテントに入るとそこには主だった傭兵団のリーダー格の者が集まっていた。


 「これで生き残った傭兵団の代表は全員か?」

 「そのようだな。それで話って何だ?」


 「うむ、我らは右翼の谷川から獣化部隊と共に攻め上るよう指示され、今は帝国軍本隊から地理的に分断されておる。今日の戦いで連絡網も分断され、本隊の状況が分からなかったが事態はかなり深刻のようだ」


 「深刻? まあ、こっちは獣化部隊がほぼ全滅、我々の作戦は失敗ってところだな」

 比較的若い傭兵団長が肩をすくめて見せたが、誰も反応しない。


 「本隊の攻撃もうまくいっていないのだな?」

 そう言ってジャシアは老兵を見つめた。

 「うむ、最悪と言って良い」

 彼は沈痛な面持ちでうなずいた。


 「さすがは、建国以来一度も抜かれたことのない黒鉄関門。厄兎大獣隊も今日の総攻撃でほぼ壊滅したそうだ。つまりはあの関門を正面突破するだけの火力は我らには残されていないということだ」


 「やっぱりな、思ったとおりだ。それで? 獣天様の次の作戦は? 奇襲か? 何か別の策か?」

 「それなんだがな……」

 老兵の声は低くなり、集まれ、と指を動かし、なんだろうとみんなが身を寄せた。


 「獣天ズモー様の戦死が確認された」


 「!」

 一堂にどよめきが走った。


 「は? あの獣天が死んだ?」

 ジャシアの脳裏が真っ白になった。

 あいつは憎んでも憎み切れないほどの仇だった。私をこんな風にしたのはアイツなんだぜ。それがこんなに呆気なく?


 …………死んだ?


 「帝国軍は隠しているが間違いないらしい。猪突猛進の勢いで突撃したところに砲撃の直撃を受けてバラバラに吹き飛んだそうだ。いくら人間離れした強靭な肉体の持ち主と言っても黒鉄関門の重砲が命中したのではな、ひとたまりもあるまいて」


 みんなの表情が強張っていくのが分かる。

 大将の死は敗戦を意味する。


 「では今の指揮は鳥天様が?」


 「いや……」

 老兵は首を振った。


 「どうしたのだ? まさか?」

 「そのまさかだ。鳥天ダンダ様も下半身を吹き飛ばされ、虫の息だそうだ。おそらく明日まで持たないだろう」


 「!」


 「つまり討伐軍の完敗じゃないか! 戦ってももはや意味がない、ならば光龍兵団はこの戦から降りるぞ! 金も支払われねぇ、無駄死になんかしたくないぜ!」

 中堅どころの傭兵団である光龍団のリーダーの男が声を荒げた。


 「光龍団が抜けるなら、俺たちも抜けるぜ」

 「そうだ、やってやれるか!」

 傭兵は金と勝ち負けに敏い。負け戦さと決まれば、わざわざ義理固く戦う者などいないのである。


 次々と声が上がる中、最近力をつけてきた中規模傭兵団、湿地の陽炎団のリーダーが静かに手を上げた。


 「みんなちょっと待て! そもそもこの討伐軍の総大将は貴天オズル様だったはず。貴天オズル様はどこにおられる? どうお考えなのだ?」


 「オズルか、そう言えばこのところ姿を見ていないんだぜ」

 ジャシアが頬を撫でながら北星の闘士団の老兵の顔色をうかがった。


 老兵はまったく動じていない。若い連中が帝国を見限って退こうと考えているのを気にもしていないように見える。


 「オズル様は皆が知ってのとおりスーゴ高原での開戦以降、誰にも目撃されておらん。何か極秘任務があって別行動をとられているという噂だ」


 「いない? それは初耳だわ。てっきり移動指揮車で例の美女と戯れているのかと思っていたわ」

 「ああ、ずいぶん余裕をかましていると思っていたが、戦よりも重要な任務があったというのか?」

 「まさか何か密命か? 裏で新王国と取引しているんじゃねえのか?」


 「いずれにしても帝国軍の総大将の貴天オズル様と鬼天ダニキア様が残っている。その配下の獣天が死んだというだけだ。この戦さが我らの敗北と決まったわけではないぞ。黒鉄関門も城壁が崩れた地点がある。オミュズイの基地に封印されている大戦時の攻城兵器を繰り出せば一発逆転もあるだろう。もしかすると貴天オズル様はその攻城兵器を持ちだそうとしているのかもしれんぞ」


 老兵の言葉にその場に集まった傭兵団のリーダーたちは考え込んだ。状況を不利と判断して勝手に撤退するか、貴天が戻るまで耐えるかである。


 「いずれにしてもだ。こっちは頭を失ったんだぜ。貴天が顔を見せるまでは膠着状態になるだろうぜ。こっちの被害は大きい、無茶な攻撃はしばらくないと見るべきなんだぜ」


 「うむ、ジャシア殿の言うとおりだ。ここは再攻撃に備えて立て直しを図って、しばらく様子を見るということではどうだ?」


 「確かに。勝手に逃げた後で貴天が勝利したら違約金の問題が発生するかもしれないな」

 「よし、我ら傭兵部隊は老兵殿の言う通り、ここは立て直しに力を注いで様子を見るということでどうだ?」

 「賛成だ」

 「致し方なし」


 傭兵団のリーダーたちは当面様子を見ることとし、今後細かなの方針を打ち合わせた。



 「どうでしたか? ジャシア隊長」

 サーリアが野営地で眠らずに待っていた。

 「うん、戦況は最悪だが傭兵部隊はこの補給基地でしばらく様子を見る事に決まったんだぜ」

 ジャシアはたき火のそばに腰を落とした。


 「しばらくですか?」

 「何日になるか半年になるか、何とも言えないんだぜ。でもこっちは時間がないんだぜ。エチアの具合はどうだ?」


 「ええ、相変わらずです。特に月夜は獣の力が弱まるので危険な状態になります」


 「なんとかしなくちゃなんだぜ。こんな所でモタモタしていられない。……ここでの指揮はタイアイナに任せるか」

 「タイアイナにですか? 隊長はどうされるのです?」


 「革袋を準備しろ、エチアを連れていく。例の抜け道なんだぜ」


 「まさか、黒鉄関門を通過しないでセラ盆地に出られるという洞窟ですか? 密輸組織が利用しているらしいですが、洞窟を抜けるのは至難らしいですよ」


 「私は獣人なんだぜ。暗闇でも鼻が利くんだ。普通の人間より抜け道を抜けるのは得意なんだぜ」

 ジャシアはにやっと笑った。

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