第290話 再会

 見上げるとほとんど垂直に見える濡れた冷たい石壁がそそり立っている。途中で何度か落下して、試行錯誤しているうち、しだいに登るべきルートが見えてきた。


 絶望感を抱かせる絶壁。

 しかし、この壁を越えなければリサやセシリーナたちが待つ地上には出られない。覚悟を決めろ!


 「登れ! 必ず登ってみせるんだ!」

 俺は必死に壁にしがみつく。

 大丈夫、手でつかんだり足場にしたりできる石が多い。俺はがむしゃらに登り始める。

 すぐに手が痺れてくるが、壁の裂けめに足先を突っ込んでさらに登る。


 「くっそ、まだまだいける!」


 俺は苔むした石積みの壁の出っ張りを確認しながら、一歩一歩体を持ち上げていく。懸垂の苦手な俺にはかなりキツイ。体力のない俺がチャレンジできる回数など限られている。登る力のあるうちに登らないと。


 希望はある。

 下から見ると壁は垂直に見えたが幸いなことに上に行くほど穴は広がっている。つまり少しづつ傾斜がついて緩やかになっていく。だから、こんな俺でも登っていける。


 しかも、所々で上から垂れ下がってきた木の根っこが石壁に絡みついている。そこは小さなハンモック状になって、そこに足を引っかけて痺れた手指を少し休ませることができる。


 俺はそんな木の根で休憩しながら、袋から乾燥させた草原コケモモの実を取り出して口に含んだ。少し酸味があるが疲れた身体にはかなり効く。


 「あと少しだ、行くぞ」

 おれは気力を振りそぼって痺れた腕に血を巡らせる。指も強張ってきたが、もうひと踏ん張りだ。


 再び石壁のでっぱりをつかんで体を引き上げていく。


 やがて穴の縁が見えて来た。

 ついにあと少し……。

 だが、穴の縁は頭上にフタをするようにわずかに張り出している。そこが最大の難所だ。ここまで来たというのに、ネズミ返しのような状態になっている。


 「くそっ! みんなが待っているはずなんだ」

 これを乗り越えて穴の上に出るのはかなり困難だが、もうやるしかない。


 俺の脳裏にセシリーナが、リサが微笑んでいる光景が浮かぶ。

 きっとみんな無事だ。あんな粘性体なんかに飲み込まれてしまうはずはない。


 ペタペタペタ……

 俺は穴の縁に手を伸ばし、張り出しが少ない場所を探した。


 「ここだ! 一気に行くぞ!」

 俺は踏ん張って足場につま先立ちになった。

 一瞬、顔が穴の縁から出かかった、よし行ける!

 そう思った瞬間、ふいに足元の石がぐらっと動いた。


 「!」

 焦って石がちゃんと固定されているか確認しなかった俺のミスだ!

 

 こんな所で!

 あと一歩という所だったのに!


 「しまった!」と思う間もなく身体が宙に浮いた。手でつかめる物はない! この高さから床に叩きつけられれば、即死!


 「うわああっ!」

 俺は暗い穴を見上げ大きく目を開いた。

 死の気配が周囲を包み込み、落下に転じた浮遊感が俺を絶望させる。


 「あきらめるな! つかまって!」

 「!」

 その時だ、ガッと俺の手を誰かがつかんだ!


 柔らかく白い手!

 アリスかクリス? 手首に腕輪のような鱗が見えないからセシリーナではない。


 でもこの際、誰だって良い!

 魔女でも悪魔でも構うものか!

 俺はその手を握り返し、歯を食いしばって再度壁に足をかける。出っ張った岩にしたたかに腿を打ったが痛がっている場合じゃない!


 「がんばって!」

 俺を引き上げる手は力強い。

 「助かった! 頼む!」

 俺は手を引っ張ってもらい、やっとのことで穴の縁に這い上がった……


 そして俺は見た……

 これは現実なはずがない。

 そう思わせる、その泣きそうな微笑み。


 本当は落下して、俺は死んだんじゃ……?

 漆黒の黒髪の美しい死の女神が、俺を迎えに来たのかもしれない。


 そこには美しい女神が瞳を潤ませて微笑んでいた。

 「やっぱり!」

 ぐっと力強く引き寄せられ、抱きしめられてその温もりに気づく。


 「カイン! 貴方なの! やっと会えた! やっと会えたわ!」

 この声、この温かさ、この匂い。

 目が飛び出そうなほど強い抱擁!

 この腕力、間違いない! 余りの衝撃に俺は息を飲む。


 「私です! サティナです!」


 「ま、まさか、サ、サティナ姫! 幻じゃないのか!」

 「本物です! サティナです! カインを探してここまで来たんです!」

 そう言ったきり、サティナは俺を抱きしめたまま身を震わせ始める。




 ー---------

 

 「ミラティリア、あれが姫のカインなのですか?」

 「なんだか思っていたのと違いますよね」

 ひそひそ話が聞こえてくる。


 誰か知らないが、ちょっと声が大きいぞ、君たち……。

 全部丸聞こえなのだが……。


 たき火の傍らで涙で目を赤くしたサティナの膝枕に横たわっている。彼女は愛おしそうに俺の頭をずっと撫でている。

 広いホールのような部屋は薄暗い。多くの騎士たちが反対側の方に集まってたき火を囲んで休息しているのが見えた。


 事情は全部サティナから聞いた。

 彼女は俺を助けるためにわざわざ危険を冒してこの大陸まで来たのだ。

 こうして巡りあえたのはきっと偶然ではない。

 紋の強い加護が二人を引き寄せたのだ、そうとしか思えない。俺は腹の婚約紋を撫でた。それにしてもサティナ姫はとんでもない美少女に育ったものだ。セシリーナたちの美貌に慣れている俺ですら照れるくらいだ。


 「さて、やっと落ちついたようだな。カイン君」

 やがて俺の前にカムカムが姿を現した。

 同行している騎士たちがカムカム一行だとサティナから聞いていたので、その顔を見ても別に驚きはしない。


 「君がここにいると言う事は、クリスティリーナもここに来ているということだな?」

 カムカムは俺たちのたき火の前に腰を下ろした。

 どうやらクリスティリーナが俺の妻であることは既にバレているようだ。俺は身を起こした。


 「ええ、俺たちは巨大な粘性魔獣の襲撃を受けて、俺だけが一人仲間からはぐれたんです」

 「パーティーメンバーは何人だ? クリスティリーナの他に女がいるのか?」

 カムカムはたき火に小枝をくべながら俺をにらんだ。


 「俺を入れて9人、男は俺一人で……。あっ、正式な妻は今はクリスティリーナだけです! 婚約者なんかがいますけれど」

 カムカムとサティナの目が冷たく光ったので俺は慌てて説明した。

 婚約者はリサ、イリス、クリス、アリス。

 アリスが既に妻にランクアップしていることはまだみんなには内緒。ミズハとリィルは眷属解消したし、ルップルップは勝手についてきているだけだ。


 「クリスティリーナは無事なんだろうな? 危険はないのか? 彼女を守るべき騎士たる君が抜けても大丈夫か? か弱い女性だけで危機に陥っていないか、心配に思わないかね?」

 そう言ってぽきりと太めの枝を折るところが何だが怖い。娘に何かあったらお前の腕もこうだぞ、と言わんばかりの気配である。


 「いえいえいえ……」

 強く否定しよう! 彼女たちがか弱い? とんでもない。


 「?」

 「ご心配ありませんよ。クリスティリーナたちは間違いなく無事です。うちのパーティーメンバーは伝説級に強いですから、俺なんかいてもいなくても同じです」


 「ほう、妙な言い方をする。男のお前よりも強いというのか?」


 「本当のことですよ。なにせメンバーには魔王二天のミズハがいるし、メラドーザの3姉妹は俺の婚約者ですから!」


 ぶーーっ! といつの間にかカムカムの背後に立っていたバルトンが噴いた。


 「うわあっ! バルドン! 何をするのだいきなり!」


 「これは失礼を! カインがとんでもない話を口にしたので、驚いてしまって!」

 カムカムの濡れた髪の毛をバルドンが自分のマントでごしごしと拭いた。


 「ですが、今の話は聞き捨てならないですな? 本当ですか?」

 バルドンがカムカムの脇に腰を下ろした。


 「そうだ。ウソにしてもほどがある。そんな話はにわかには信じがたいな。なぜミズハ殿やあのメラドーザの3姉妹までお前の仲間なのだ? しかも婚約者と言ったか?」


 「ええ、実は……」

 俺はカムカムにミズハや3姉妹との出会いをかいつまんで説明した。


 「!」

 カムカムとバルトンはもはや言葉も無い。


 あの恐ろしくも美しいと噂の3姉妹が婚約者、しかも一時期とは言え、あのミズハまで愛人眷属にしていたとは……まったく恐ろしい男。


 「ミズハという方は魔王二天なのですか?」

 サティナが横から俺の顔を覗きこんだ。たき火の灯りに照らされたサティナは絶句するほど美しい。久しく見ないうちにすっかり大人びて、いまや驚異的な美少女だ。


 「ああ、ミズハは魔王軍元幹部の物凄い魔法使いで、魔王二天と呼ばれた人なんだよ」


 俺の言葉にサティナは何か考え込んだ。


 「魔王二天、もしかして何か聞いたことがあるのか?」

 なんとなくそんな気がして俺はサティナを見た。


 「ええ、東の大陸を荒し回ったニロネリアという魔女の仲間と言う事ですね?」

 「ニロネリア? 誰だ? それ」


 「カインは知らないのだな。ニロネリアとミズハ、彼女たちが魔王二天と呼ばれた大魔女なのだ。そうか、しばらく姿を見ないと思っていたが、ニロネリア様は東の大陸に渡っていたのか、なるほど」

 カムカムがうなずいた。


 「……という事は、東の大陸は無事なのか?」

 俺は思わずドキリとした。

 今、サティナはニロネリアが”荒し回った”と言ったのだ。


 「東の大陸は無事です。ニロネリアの企みは多くの者が協力して防ぎました。安心して」

 「ああ、それなら良かった」


 「それにしてもカイン、多くの妻を娶ることこそ貴族の義務とは言え、我が娘を妻にしたうえにあの3姉妹まで婚約者とは恐れ入ったぞ」

 「は、はぁ」

 「サティナとあの二人も婚約者だろ? 俺の事を散々女たらしとか言っておったが、数は別にしても国を滅ぼしかねん力を持つ美女ばかり。お前の方が凄いのではないか」

 カムカムがカラカラと笑った。


 ん? このおっさん今何と言った?

 あの二人とは?


 俺はその時になってようやく壁にもたれかかって休んでいるルミカーナとミラティリアに気づいた。

 さっきの声も彼女たちだろう。二人ともかなりの美人だが、どう見ても今始めて見る顔である。


 「カイン、その事は後で説明するから」

 そう言ってサティナは俺の胸に顔を埋め、優しく俺の頬を撫でる。




 ー---------- 


 「!」

 「おや、オズル様、いかがいたしましたか?」

 作戦会議中に急に黙り込んだオズルに鳥天ダンダが怪訝な顔をした。


 「ダンダ、旧公国王都の警備を強化するようにと命じていたが、現在の状況はどうなっておる?」


 貴天オズルの野営テントの中で鳥天ダンダと獣天ズモーは互いに顔を見合わせた。新王国の要害を攻める策を練っていたはずなのだが、急に話が変わった。


 「旧公国王都の結界は異常ありません。さらに警備強化として我が部隊の精鋭が上空より定期的に見回っております」

 ダンダは答えた。


 しかし貴天オズルは渋い顔で額を押さえたままだ。その深刻そうな表情は初めて見るようなものだ。


 「嫌な予感がするな。まさか誰かが内部に侵入したか……」

 貴天オズルは目を細めた。何か術を使っているような気配が漂う。


 「?」

 「オズル様?」

 「ちっ、ミズハか」と舌打ちをすると、貴天オズルの表情が変わった。


 「獣天ズモー、私が戻るまでの間、この戦場における明日からの総指揮はお前に任せる。私はただちに旧公国王都に向わねばならん!」


 「何故このタイミングでございますか? 総攻撃前、新王国討伐の一番大事な時でございますぞ!」

 獣天ズモーは不満気に声を荒げた。

 戦いの前に総司令官が不在になるなどありえない。


 「ズモー、この戦の勝敗など大した問題ではない。戦に勝たずとも一天衆の力を世に知らしめ、無能な王族連中とは違うことを民衆に思わせれば成功と思え! 無理をせずとも良い。こんな時に備えあえて囚人都市一帯の農村を焼き払って復興させなかったのだ。余力のない新王国など徐々に体力を削ぎ取っていけばやがて崩壊する。しかし、旧公国王都への不法侵入は見逃すわけにはいかないのだ! 鬼天ダニキア、お前は私と一緒に来い!」


 「はっ、仰せのままに」

 鬼天ダニキアはうなずいた。


 「では、我々は予定通り厄兎大獣隊で要塞の正面から攻めましょう。この地点から進軍するが、よろしいか?」

 獣天ズモ―は地図を指し示した。


 「うむ。予定通りに事をすすめよ。油断せず敵の出方に応じて対処せよ。お前に総指揮を任せた以上、心配はしていないが、来るべき時に備えてできるだけ兵を損なわない戦いを心掛けよ」


 「来るべきでございますか?」

 今回は勝負がつかない、第三戦がある、という事であろうか。と獣天ズモーは首を傾げた。


 やがて天幕を出たオズルの元に執事のカルディが近づいてきた。


 「オズル様、状況はお聞きしました。計画に変更はございますか?」


 「計画はそのまま続けよ、変更は無い。私はしばらくこの本隊を離れる。シュトルテネーゼに外界の刺激を与えるため連れて来た義体は私が戻るまでの間、棺の中で眠らせておけ。……よいか、義体と本体は意識下でつながっている。義体に何かあれば彼女自身が傷つく、彼女を頼んだぞ!」


 「はっ、畏まりました。命に代えてもシュトルテネーゼ様はお守りします」

 カルディは深々と頭を下げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る