第276話 <ボザルトの決意>

 「大変だ! ボザルト! 掃除なんかしている場合じゃないわ!」

 慌てた声でミサッカが風呂の扉をいきなり開いた。


 「ん?」

 「きゃっ!」

 風呂掃除をしていたボザルトは慣れた様子で振り返ったが、一緒に掃除を手伝っていたベラナはその大声に驚いてビクッと尻尾を立てた。


 「さあ、今日も風呂掃除を極めなさい!」とか言ってモップを握らせたのはミサッカではなかったか? とボザルトは首をひねった。


 「まだここにいたのね、ボザルト! それが大変なのよ! さあ、来なさい!」

 こんなミサッカの慌てぶりは始めて見る。


 「どうしたのだ? そんなに慌てて? まさか、いや、アレは我では無いぞ。アレはひとりでにパカーンと二つに割れて……」

 しまった!  ついにバレたか!

 ボザルトは背筋が凍った。髭がピーンと硬直する。


 「え、何の話をしているの?」

 ミサッカがきょとんとした。


 「えっ、奥方様の大切な壺が真っ二つに割れていた、ということではないのだろうか?」


 ムムムムム…………ミサッカの無言の圧力がひどくなった。


 「いや、まさか、謁見の間の女神像の腕がぽろりと取れた件であろうか?」


 ドギマギとしながら、ボザルトが慌てて口を塞いだ。

 言わなくても良いことをまた言ってしまった、という雰囲気だ。


 「…………」

 ゴオオオ! と背中に炎を上げて、ミサッカの圧力がますます強まった気がする。


 「お、おお!」

 ボザルトはその迫力に気押され、尻尾が垂れる。


 「ボ、ザ、ル、ト、あんたねぇ!」

 ポキポキと指の節を抜きながら鬼のようなミサッカが近づいて来る。


 おお、命を取られる予感がする。

 ボザルトがじりじりと後退りした。


 「ミサッカさん! 私のボザルトに何をする気ですか? 暴力は反対ですわ!」

 危険な雰囲気に気づいて、ベラナが勇敢に二人の間に割って入った。


 「おお、ベラナ、我を庇ってくれるのか?」

 ボザルトは一瞬感激のあまり目が潤む。


 ベラナがまるで天使のようだ。


 「そうよ」とボザルトを見たベラナがうなずいた。


 「夫を躾けるのは妻の役目ですわ! 何か罰するならば、私が代わって実行しますわ! やりますわ!」

 そう言って、いきなりブラシを振りあげた。


 ボザルトは目を大きくした。

 ベラナが鬼のようだ!


 「あわわわわ…………待て、待つのだ」

 ボザルトは床にへたり込んだ。


 「大丈夫、一撃よ!」そう言いながらじりじりとベラナが迫る。


 「あ! 待って! 今はそんな場合じゃないのよ! ベラナ、今はいいわ。それよりも大変なのよ!」

 ミサッカがベラナのモップをつかんだ。


 「まあ、そうですか?」

 何だか残念そうにベラナが振り返る。

 おお、一命はとりとめたらしい。ベラナは容赦しないからな。

 危なかった。

 ボザルトは震えながらよろよろと立ち上がった。


 「ところで一体、どうしたと言うのだ? 魔獣ウンバスケの大群でもスキップしながらやってきたのか?」

 ボザルトは二人から少し距離を取って廊下の端に移動するとたずねた。そこに移動した理由はもちろんいつでも逃げられるように、である。


 「違うっ! 実は朝からドリス様のお姿が見えないのよ。ボザルトは、今日ドリス様に会った?」


 「いや、今日は朝からベラナに料理の手伝いをさせられておってな……」


 ああ、そう言えば朝から医局が忙しかったと言っていたな。

 ミサッカは朝の騒動を思い出した。女官の何人かがベラナの手料理だとかいうものを試食させられて青くなって倒れたらしい。


 「やはり、ボザルトも見ていないのか?」


 「ドリスがいない? 今日も館で講義だと聞いていたぞ」


 「それが、朝からいないのよ。また、性懲りも無くボザルトと一緒に脱出作戦でもやっているのかと思ったのに……。まさか、ボザルトに呆れて一人で脱出したのかも?」

 ミサッカはつぶやく。


 「な、なんと! 仲間の我を置いて一人だけ逃げただと!」

 ボザルトが妙なポーズで驚く。


 「ぷっ、ボザルト、やっぱり仲間は私のような野族でないとダメよね。人族なんて結局そんなものなのよ」

 ベラナが勝ち誇った。


 「いや、我とドリスは大変な冒険を共にしてきた仲間だ。そう易々と仲間を捨てるようなドリスではない。我らの絆を馬鹿にすると、たとえベラナでも怒るぞ!」

 ボザルトからまるで勇者のような雄々しい気配が立ち昇った。

 普段のボザルトからは想像もできない凛々しい気配である。


 「あ、私ったら、ご、御免なさい。本当に何て事を言ってしまったのかしら」

 ベラナですらついその迫力に気押される。


 「ふむ、それで? ドリスの行方になにか手掛かりはないのであろうか?」

 ボザルトがミサッカを見た。

 その背後で、ボザルトに思いがけない強い雄の姿を見たベラナの頬が染まっている。


 「夜明け前にドリス様見かけた女官の話だと、寝巻姿のまま、ぼうっとして幽鬼のように庭先に出ていたらしいわ。寝ぼけているのかしら、とそのまま声をかけなかったらしいのです」


 「密かに旅立ったならば、部屋に置いていたドリスの分の旅荷物も無くなっているのであろうか?」

 ボザルトはいつも一緒に並べている背負袋を思い出した。あれは二人の思い出の品になっている。


 「いいえ、背負い袋は二つともドリス様のお部屋にあったらしいわ。それに外出用の服や靴もそのまま残っていたし」


 「それはおかしいのだ。ドリスが脱出する時は必ず持っていこうとしていた。これはきっとドリスが自分で考えたことではないぞ、ミサッカ。もしかすると……たぶらかされたか、誘拐されたか。ドリスが危ないぞ、こうしてはおられん!」

 ボザルトはモップを投げた。


 「どこへ行くの? ボザルト!」


 「ドリスの後を追うのだ! 我とドリスは仲間だと誓ったのだ、ドリスが我を置いて出ていくはずがない! ベラナ、お前も手伝うのだ! お前の鼻は里一番なのだろう? 急ぐのだ!」

 ボザルトは荷物を取りにドリスの部屋に向かって走り出した。


 その強い決意を浮かべた横顔は、のんきで自堕落ないつものボザルトとはまるで別人である。まさに野族の英雄、「黄金尻尾勲章」の戦士である。

 色々と壊したのがバレたので一刻も早くここから逃げようとしているわけではないのである。


 「ボザルト!」

 「何よ、あんな顔初めて見たわよ」

 ボザルトの行動の早さに呆気にとられ、二人は廊下で顔を見合わせた。

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