第266話 ボザルトに迫る危機
ボザルトは尻尾を伸ばして大の字になっていた。
館の屋根に登って寝転んで、高山の青く澄んだ空を流れる雲を見ている。ドリスはまだ下の部屋で国を治めるための学問とやらの講義を受けているので退屈なのだ。
「ふあーーーーー」
髭をぴくつかせての呑気な大あくびである。
「こうも平和だと腕がなまっていかん。ルップルップ様を探しに行くにしても、この国からどうやって出ればいいのか皆目わからぬし」
そう言えばドリスに似たイリスとやらは昨日から姿が見えない。アリスはもっと前から見かけない。
国王と王妃も重要な祭事があるとかで、一週間前から山の上の神殿に籠っている。
あれ? これってもしかして、この国を逃げ出すには絶好の機会ではないだろうか?
ドリスがまた行き当たりばったりの脱出計画31号を言いだす前に、我が考えたら良いのではあるまいか?
「おーーい! こらーーっ!」
屋根の下から騒がしい声が聞こえる。
「そうであった。奴が一番手強い見張りなのであった」
ボザルトの目に箒を手にして目を三角にさせたミサッカが映った。妙に勘の鋭いミサッカがいる限り、ここからの脱出はとても難しい。
「こらーー! ボザルト! 屋根に登っちゃだめでしょ! 下りてきなさい! 貴方の大好きな風呂掃除が待ってるわよ」
「風呂掃除!」
ぞわわ…………と総毛立った。
この前、ゴーレムで露天風呂を壊した罰であまり使っていなかった屋内の風呂を隅から隅まで磨かせられたばかりだ。
「肉球でこすると汚れが良く落ちるわ」とか言われておだてられて、思わず張り切ってしまったので、風呂掃除好きと思われているらしい。
ミサッカは屋根の下でニヤニヤしている。
ボザルトは屋根から顔を出した。
「この前の掃除で罰は終わったはずではないのか? なんだか、毎回ミサッカの仕事を肩代わりしている気がするのだが?」
ボザルトが汗水流して掃除をしている傍らで、涼しげにお茶を飲んでいただけのミサッカがなぜか上官の女官に「掃除が上手ね、また頼むわね」とひどく褒められていたのだ。
「何を言ってんの! あれがあんたの仕事じゃない! 仕事もしない奴にはご飯あげないわよ! それにみんなすごーーく褒めていたわよ!」
「おかしい、なにか騙されている気がする」
「だ、騙すだなんて、そんな訳ないじゃない」
急にミサッカの態度がおどおどした。
やはりどうも怪しい。
ボザルトは目を細めた。
「ほら、掃除が終わったら、街の市場に連れて行く約束だったでしょ? 行きたくないのかなーー? 今は赤根実が旬な時期なんだけどなーー。まあ行かないなら私は別にいいんだけど」
ぴくっとボザルトの耳が動く。
赤いぷるぷるの果実を思い出して涎が出る。
「うーむ、赤根実は捨てがたい……」
「じゃあ、早く下りてきなさいよ。掃除を済ませて街に行くわよ。色々とお使いも頼まれているし」
「わかったのだ。その代わり、赤根実は絶対に買ってもらうぞ。約束だぞ」
ボザルトはぴょんと屋根から飛び降りた。
「掃除は第2浴場から始めるわよ。いい、間違っても第1浴場は今日は駄目よ。今、お客が来ていてね、宰相に面会するために身を清めている最中なんだからね」
ミサッカはガラガラ! と派手に大きな音を立てて掃除用具を物置から引っ張り出した。
「何を言ったのか聞こえなかったぞ」
ボザルトは床に落ちたタワシを拾い上げた。
「はい、それでは掃除を始めましょう! ボザルトは先に風呂場に行って掃除を始めておいてちょうだい、私は新しいタオルを取ってくるわ」
そう言ってミサッカはパタパタと廊下の向こうに消えた。
「本当に戻ってくるのであろうか?」
ボザルトはモップを手にとってその背中を不安そうに見る。
「なんだか、いつの間にか我は槍術よりもモップの方が得意になった気がするぞ」
そう言ってボザルトは、モップをくるくると回して脱衣所の扉を開けた。
あまり使われることのなかった内風呂は照明が暗くなっている。ちゃぽーんと遠くから水音がした。
「どうしてミサッカは我にキツイのであろうな」
ボザルトは板張りの床を丁寧に磨いていく。
尻尾が左右に揺れている。光沢が出るまで磨いた床を満足そうに眺め、次に風呂場へ向かう。
「この前は、建てつけが悪くて開かなかったが、もう直したのであろうな」
ボザルトは服の裾をまくり上げると、扉に手をかけた。
ガラッ!
思いがけず扉は軽く開いた。
「おや?」
「へっ?」
目の前の鏡がつぶやいた。
いや、これは鏡じゃない。ボザルトにこんな乳房はないのだ。
「ひ、ひええええええ!」
目の前の野族の娘が胸を隠して悲鳴を上げた。
「どわああああーーーー!」
ボザルトは驚愕に目を開いた。
「どうして? なんで? ここにボザルトが!」
「お、お前は、ベラナ? ベラナではないか!」
「で」
「で?」
「出ていけー! この馬鹿あああーーーっ!」
風呂場に置いてあった桶が飛んできた。
「うおーーー、何かの間違いだ! どうしてここにベラナがいるのだ!」
ボザルトは大慌てで脱衣所を逃げ出した。
「!」
バゴーン!
廊下に飛び出たとたんミサッカに激突した。もはや最悪のタイミングと言っていい。
「つつつつ…………」
「わわわわ!」
ボザルトは目を白黒させている。
ミサッカは顎を押さえてボザルトを睨んだ。
ボザルトが出てきたのは第1浴場、大切な客人が使っている最中のはずだ。
「ボザルト! 何で、お前がそこから出てくるの? もしかして、第1浴場を掃除したんじゃないでしょうね?」
「い、いや、それはだな……」
ミサッカの前でボザルトは床に転がったモップを拾って照れ笑いを浮かべた。
その背後の扉がガラリ!と開いた。
野族の娘がそこに仁王立ちしている。もちろんタオルを身体に巻いている。
「ベ、ベラナ!」
「ベラナ嬢、どうかしましたか?」
「ボザルト! ようやく見つけた! だけど、覗き見するような奴だとは思わなかったわ!」
野族の娘はボザルトを睨んでいる。
「あれ? お二人はお知り合いなのですか?」
ミサッカはその様子に首をかしげた。
「ベ、ベラナは我の
怯えた目でボザルトがミサッカの背中にさっと隠れた。
「幼馴染みでも覗き見はいけないでしょう!」
ベラナが腕組みして睨む。
「これは、馬鹿なボザルトが間違って風呂掃除に入ったようで申し訳ございません。ほら、お前も謝れ」
こそっと逃げようとして忍び足のボザルトの手をミサッカがぐいっと掴んだ。
おかしい、なぜバレたのであろうか?
まさかミサッカは後ろにも目があるという化け物か?
ボザルトはピクピクと髭を動かした。
「ほら、早く謝りなさい」
ミサッカの声は優し気だが、なぜか目が怖い。
「……済まぬ、まさか入浴中だとは思わず」
ボザルトの尻尾が垂れた。
「まあ、事故だったというのならば目をつぶりましょう。それにこの国に来たおかげで、もう一つの目的も果たせたみたいだし」
「というと?」
「もしもどこかでボザルトに会う事があれば、これを届けよとのボフルト様からの言伝ですわ」
そう言ってベラナが小さな勲章を見せた。わずかな光でもまばゆく輝く黄金。尻尾をかたどったデザインである。
「そ、それは! 黄金尻尾の勲章ではないか! それを我に? という事は、まさか我は戦死したことになっているのか?」
ボザルトが目を丸くした。
「なんなんです? 黄金尻尾の勲章って?」
ミサッカがベラナの手のひらで光るそれを見た。
「勇敢に戦って死んだ戦死者に与えられる名誉の勲章なのだ。これが渡されたという事は、野族の里では我は死んだ事になっており、野族の里に戻っても我の居場所は既に無いということなのだ」
「そのとおりですわ」
ベラナはうなずいた。
「それに、神官長様からは、もしもボザルトに会えたら二人で新たな集団を作って自由に生きよ、とのお言葉を頂いてきました」
ベラナはポッと顔を赤らめ、尻尾を揺らした。
「待て、という事は、老後のために我が今まで蓄えてきた木の実とかは……」
「御免なさい、貴方が死んだと思って、みんなで美味しく頂きましたわ」
「うおおっ、何ということであろうか? 我は無一文ではないか!」
ボザルトは可哀想なほどがっくりと膝をついた。
「ボザルト、気を落すな。お前は立派に風呂掃除ができる! きっと「あれが黄金尻尾勲章の英雄よ!」と称賛される見事な風呂掃除係になれるぞ。この国でも十分やっていけるわよ!」
ミサッカがさっぱり嬉しくないことを言って、ボザルトの肩をポンポンと叩いた。
「ところで、なぜ、そのことを伝える役にベラナが選ばれたのだ?」
ボザルトはベラナを見た。
幼馴染みだが、はっきり言ってボザルトはベラナが苦手である。いつもボザルトにちょっかいをかけてきて、色々と問題を起こしてきたのだ。
「なぜ? ですって。良くその口が言えたものね」
ベラナが近づいてきた。
その迫力にじりじりと壁際まで後退するボザルト。
ベラナの尻尾がピンと立った。
「よく話を聞いていなかったのかしら? 神官長様とボフルト様は、私にむかって「ボザルトと新たな集団を作れ」とおっしゃったのよ」
ごくり……とボザルトの喉が鳴る。
「というと、どう言う事なのだ?」
「勘がにぶい男ね。つまりボフルト様は、貴方と私がツガイになって新たな家族を作れと、お命じになったのよ!」
ひええええええ…………!
ボザルトの目の前に黒い羽を生やした鼠の女神が舞い降りてくる。おお、あれが噂に聞く死神なのであろうか?
「おい! しっかりしろ! ボザルト!」
ミサッカの声が急に遠くなり、ボザルトはぱったりと気絶した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます